第15話 認可をお持ちの方が、六年間、一度も削っていませんでした
六日、返事を出さなかった。
ドルセー侯爵からは、あれきり何も来ない。催促もない。それがかえって、待たれているという形になっていた。
その六日で、ヴィオラは飾り石を五つ仕上げた。手を動かしていないと、あの部屋の香木の匂いが戻ってくる。
マチルドは何も聞かなかった。行ってきたのかい、とも、どうだったんだい、とも。ただ、六日目の夜に一度だけ「あんた、飾り石を五つも重ねて削ったら手が保たないよ」と言った。
実際、右手の親指の付け根が張っていた。一日に一面。それ以上は、翌日に返ってくる。
七日目の朝、丘を下りた。
宝物監府に照合の申請を出したのはクレールの名だ。ヴィオラは無認可なので、単独では門を通れない。申請書の同行者の欄に「研磨師見習い」と書かれている。名は書かれていない。
「先に、こちらを」
台帳庫に入るなり、ラウルが箱を一つ卓に置いた。
セルジュ・ガルニエ。登録一一二二年。
「六年分を通しで照合しました。この見本片と一致する現物が、一件もありません」
「一件も」
「三十七件、彼の名で世に出ています。そのすべてが、別の手です」
ラウルは布を敷き、見本片を出した。ヴィオラが敷いた布ではない。彼が自分で用意していた。麻ではなく綿だ。目が粗いぶん、滑らない。
覚えたのだ、とヴィオラは思った。一度見ただけの他人の作法を、この人は自分の側に取り込んでいる。台帳に書ける種類のことではないのに。
「三十七件のうち、三十一件があなたの癖です」
「残りの六件は」
「四件がオーギュスト・ガルニエ。ただし、いずれも一一二一年以前の受け渡しです」
ラウルが指を止めた。
「残る二件が、分かりません」
ヴィオラは顔を上げた。
「登録のない手ですか」
「登録のある二百十四名の見本片と、返上した三十九名。どれとも一致しません」
棚の高いところで、風が鳴った。窓の隙間から入る風だ。冬になると、この部屋は紙より先に人が乾く。
ヴィオラは自分の指を見た。三十一件。六年で三十一件、セルジュ様の名で世に出た石を、自分が削った。
それは記憶と合う。合いすぎるほど合う。
ラウルは二件の記録を卓に並べた。
一一二四年十一月。一一二五年二月。
「一一二四年」
「はい」
十月の頁が破られた、あの秋の翌月だ。
「その二件の石は、いま、どちらに」
「一件はモロー商会。証石の一部として保管されています。もう一件は、記録上『返却済』とだけあって、行き先の記載がありません」
ヴィオラは目を伏せた。
モロー商会。あの夜会で、主人が卓に置いた小さな証石。角の落とし方に覚えがあった。
あれは、五枚目だ。自分の手だ。
だが、ラウルの言う二件は、自分の癖ではないという。
「デスタン様。モロー商会の石は、複数ございませんか」
「三つあります」
「うち一つが、わたくしの手ではないでしょうか」
ラウルは帳面を繰った。繰る速さが、いつもより速い。
「二つが、あなたの癖です。残る一つが、不明の手」
「その一つは、いつ納められておりますか」
「一一二四年十一月」
二つと同じ月だ。
同じ商会に、二つの手が入っている。
同じ夜に、同じ工房から出た石が。
ヴィオラは五枚目のことを思い出そうとした。あれは見せかけの面を刻む仕事だった。証石の一部だと言われて、小さな石片に三面。半晩もかからなかった。
あのとき、卓の上に石は一つしかなかった。二つ並べた覚えはない。
だとすれば、もう一つは別の場所で削られている。
「デスタン様」
ヴィオラは卓の縁に手を置いた。
「オーギュスト様の分も、通しで照合なさいますか」
「します」
「おやめください」
ラウルが顔を上げた。
「なぜです」
「照合なさるほど、記録は正確になります。正確になった記録は、無認可の者が家石に触れたと告げます」
「そのとおりです」
「それは、わたくしの罪でございます」
「そのとおりです」
彼は同じ言葉を二度、同じ調子で言った。慰めるつもりも、脅すつもりもない声だった。
「では、なぜ照合をお続けになるのですか」
「合っていない頁を、合っていないまま置いておけません」
「わたくしが流刑になっても、ですか」
「あなたが流刑になっても、台帳は正確でなければなりません」
言い切られて、ヴィオラはかえって息を吐いた。
この人は、嘘をつかない。都合のいいことも言わない。だから信じられる。
「わたくしを、どうなさるおつもりですか」
「どうもしません」
「どうもしない、というのは」
「私は台帳を正確にします。その結果として何が起きるかは、私の職務の外です」
ヴィオラは彼を見た。
窓の高いところから落ちる光が、卓の端を切っている。ラウルはその線の外側に立っていた。顔に光が当たっていない。
「では、正確になった台帳には、何と書かれますか」
「三十七件は、セルジュ・ガルニエの手ではない。三十一件は、登録のない手による。二件は、不明の手による」
「わたくしの名は」
「書けません」
ラウルは箱の蓋を閉めた。
「登録がありませんので」
喉の奥が乾いた。
自分の手だと分かっている。この人にも分かっている。それでも書けない。書く欄そのものがなかった。
罪は帰属するのに、名は帰属しない。
ヴィオラは布を畳んだ。畳んでから、畳む必要のない布だったことに気づいた。今日は一度も石を置いていない。
帰り道、坂の途中でラウルが足を止めた。
「ルサージュ殿」
初めて姓で呼ばれた。それまでは、呼ばれていなかった。
「二件の不明の手について、一つ気づいたことがあります」
「はい」
「オーギュスト・ガルニエの見本片と、面の運びの向きが同じです。右下から入り、時計と逆」
ヴィオラは足を止めた。
「ですが、稜線が丸い」
「……ご覧になったのですか」
「見ました。私は現物を見るのが職務です」
ドルセー邸の飾り石も、そうだった。右下から入って、時計と逆。稜線が丸い。
同じ手だ。
ヴィオラは坂の途中で、外套の前を合わせ直した。風が下から吹き上げてくる。
旦那様の癖を持ち、旦那様ほど角を立てきれない手。
「登録のある者の中に、そういう手はございませんか」
「ありません。二百十四名すべて確認しました」
ラウルは坂の下を見ていた。王都の屋根が、夕日を受けて赤い。
「一つだけ、まだ見ていない箱があります」
「どちらの」
「返上者の綴りの、古いほうです。三十九名のうち、私が就任する前に返上した者は、別の棚にまとめてあります。就任以来、あちらを開く用がありませんでした」
彼は歩き出した。
「明日、開きます」
「なぜ、いま思いつかれたのですか」
「あなたの癖が、父君譲りかもしれないと思ったからです」
ヴィオラは足を止めた。
「癖は、教えた者から移ります。あなたは誰に教わりましたか」
「……父に。それと、父の師に」
「では、その二人の見本片が残っていれば、比べられます」
ヴィオラは半歩遅れてついていった。
十年前に返上した者。
その中に、マチルド先生がいる。
そして——父も。




