第14話 侯爵は微笑んで、「あなたなら分かるでしょう」とおっしゃいました
返事を書くのに三日かかった。
封書は丁寧だった。一度お目にかかりたい、ご都合のよい日をお知らせ願いたい、と。断る言葉が見当たらないほど丁寧で、だからこそ断れない形になっていた。
マチルドは「行くのかい」とだけ聞いた。
「行かなければ、二度目が来ます」
「二度目のほうが、断りにくいだろうね」
老女はそれ以上止めなかった。かわりに、外套の襟を繕ってくれた。糸目が細かい。研磨師の手は、針も持てる。細かいものを一定の力で扱う仕事は、根が同じだからだ。
迎えの馬車が来たのは、返事を出して四日後だった。
丘の下まで下りると、御者が扉を開けて待っていた。踏み台まで出された。ヴィオラは道具箱を先に載せてから乗り込んだ。
車内は暖かい。座面に毛皮が敷いてある。窓の桟に埃がない。
この馬車で工房の前を通ったら、旦那様は何と思うだろう。そんなことを考えた自分に気づいて、ヴィオラは窓の外へ目を移した。
ドルセー侯爵邸の応接は、思ったより狭かった。
広間ではない。客を人数で圧するための部屋ではなく、一人と向き合うための部屋だ。暖炉に火が入っていて、香木の匂いがする。
卓が一つ、窓の側に寄せてある。
その上に、白い布が敷いてあった。
ヴィオラは戸口で足を止めた。
「お待ちしておりました」
細身の男が立ち上がった。夜会で見たときと同じ、上等だが華美ではない上着。手袋はしていない。
「ジュリアン・ドルセーです。急なお呼び立てを、お許しください」
声が低い。夜会の広間で聞いたときより、ずっと低かった。人前で出す声と、一人に向ける声を、この人は使い分けている。
「ヴィオラ・ルサージュと申します」
「存じております。腕のいい研磨師を探しておりましてね」
侯爵は椅子を勧めた。職人に椅子を勧める貴族を、ヴィオラは初めて見た。
「砥ぎ町でお名前を伺いました。ガルニエ工房の仕事は、十年ずっと同じ手だったと」
「工房の仕事でございます」
「そう伺うだろうと思っておりました」
「ええ。工房の仕事ですね」
侯爵は微笑んだ。否定も肯定もしない微笑み方だった。
「布は、そちらでよろしいでしょうか。お使いになると伺ったので」
ヴィオラは布を見た。
麻。目が細かい。石を置くには少し滑るが、悪いものではない。
誰が、伝えたのか。
砥ぎ町の職人か。アニエスか。あるいは旦那様か。
布を敷くのは、職人なら誰でもする作法ではある。だが「必ず自分の布を出す」となると、話が違う。それを知っている者は多くない。
ヴィオラは道具箱を膝に置いたまま、椅子に座った。
「これを、少し整えていただきたい」
侯爵が小さな箱を開けた。
中の石を、ヴィオラは自分の布に移してから持ち上げた。侯爵の布は使わなかった。
面が六つ。飾り石だ。家石ではない。
拡大鏡を出す。窓のほうへ向き直る。日は既に低い。窓枠の影が、卓の半分にかかっていた。
削り跡を見る。
左肩からではない。右下から入って、時計と逆に回っている。仕上げは磨き切ってある。艶が高い。
旦那様の癖に、似ている。
だが、違う。
旦那様の稜線は硬い。若い頃の仕事は、角が立っている。この石の稜線は、わずかに丸い。角を立てきる前に手を止めている。
これは――手が利かない者の仕事だ。
「いかがです」
「新しい仕事でございます。半年以内かと」
「ほう」
「削り跡の縁に、まだ粉が噛んでおります。使い込まれた石なら、これは取れます」
ヴィオラは拡大鏡を下ろした。
「ただ、これ以上は申し上げられません」
「なぜです」
「日が落ちております」
侯爵の眉が、わずかに上がった。
「蝋燭では、面の角度は読めても条痕は追えません。断定するには、朝の光と、研ぎ台と、拡大鏡が要ります」
「三つ揃わなければ、何も言わない」
「はい」
「立派なことです」
「立派ではございません。断定した石が違っていれば、家が一つ傾きます」
「傾いた家を、ご覧になったことが」
「ございません」ヴィオラは答えた。「ですから、断定しないのです」
侯爵は目を細めた。笑ったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。この人の顔は、どちらとも読めない。
侯爵は椅子の背にもたれた。
「では、明朝もう一度いらしていただけますか」
「わたくしがこの石について申し上げられるのは、それだけでございます」ヴィオラは石を布に戻した。「これは家石ではございません。整えるのに、わたくしである必要がございません」
部屋が静かになった。
暖炉の薪が、ぱち、と鳴った。
「ルサージュさん」
侯爵は姿勢を変えなかった。
「面の数というものは、不思議なものだと思いませんか」
「……と、申しますと」
「十二面の家と、十一面の家がある。一つ違うだけです。石の重さは変わらない。中身も変わらない。それでも、片方が先に頭を下げる」
彼は指を組んだ。指が長い。剣も鋤も握ったことのない手だった。
「三百年前、私の家は八面でした。八面のとき、我が家は国境を守っていた。守っていた者が、守られていた者より低い。それが数というものです」
ヴィオラは何も言わなかった。
夜会で、この人は誰にも手元を見せなかった。この部屋でも、手袋はしていないのに、指には何も嵌めていない。
「血は薄れます」
侯爵は静かに続けた。
「三代前の当主は、狩りで死にました。二代前は、子が生まれなかった。血というのは、そういうふうに薄れていく。けれど国は続かねばならない」
薪がもう一度鳴った。
「――あなたなら分かるでしょう。削る人だ」
ヴィオラは布を畳む手を止めた。
石を扱う者として言われたのではない。
削る、という言葉に、この人は別の意味を載せている。
帰りの馬車は、行きと同じものだった。
窓の外は暗く、王都の灯りが遠くに散っている。膝の上で、ヴィオラは自分の布を握っていた。麻の目が、指の腹に食い込んでいる。
あの石は、旦那様の癖に似た、旦那様ではない誰かの仕事だった。
右下から入って、時計と逆。それは旦那様の癖だ。だが手が利かない。
旦那様の癖を、旦那様ではない誰かが真似ている。
写そうとした跡は残る。手が一度止まる。あの丸い稜線は、その跡ではないのか。
馬車が石畳を鳴らした。車輪が継ぎ目を拾うたび、道具箱の中で砥石が触れ合う音がする。
旦那様は削れない。四年前も削れなかったはずだ。指はもっと前から曲がっていた。
では、旦那様の癖を持つあの石を、誰が削ったのか。
癖は、写せる。止まらないくらいうまく真似られる者がいたら、とマチルド先生は言った。
そして、もう一つ。
あの方は、わたくしが布を敷くことをご存じだった。
布を用意して、待っていらした。
ヴィオラは目を閉じた。
あれは依頼ではない。
石を整えさせたかったのなら、砥ぎ町の工房に出せばいい。飾り石を整えるのに、わざわざ丘の上から馬車で呼ぶ必要はない。
あの方が見たかったのは、石ではなく、こちらの手つきだ。
どこまで見えるのか。何を言い、何を言わないのか。
測られたのだ。




