第13話 台所には、書簡より早く噂が届くのだそうです
四日、雪が降ったり止んだりした。
積もるほどではない。丘の草の根元だけが白くなって、日が差すと消える。マチルドは「本降りは節が変わってからだ」と言って、薪を割る手を止めなかった。
ヴィオラは飾り石の注文を三つ引き受けた。麓の村の商人が持ってきたもので、家石ではない。無認可でも触れる。
工賃は安い。家石の十分の一にもならない。それでも、当面の食い扶持は立った。
削っているあいだは、七つのことを考えずに済んだ。手が動いていると、頭は静かになる。父もそうだったのかもしれない。工房を畳んでからの二年、父は一度も石の話をしなかった。手を止めた者が黙るのは、話すことがないからではないのだろう。
四日目の昼過ぎ、丘を上ってくる足音がした。
馬車ではない。走っている。
「ヴィオラさん!」
アニエスが、息を切らせて戸口に立っていた。前掛けのまま、頭に雪を載せている。王都から徒歩二時間を、どうやら半分近く走ってきたらしい。
「暖まってください。座って」
「あの、その前に」彼女は膝に手をついた。「聞きました?」
「何も聞いておりません」
「じゃあ、あたしが一番ですね」
アニエスは満足そうに息を吐いて、それから咳き込んだ。
マチルドが奥から椀を出してきて、湯を注いだ。
「あんた、走ってきたね」
「途中まで荷馬車に乗せてもらいました。そのあとは走りました」
「馬鹿だね。汗が冷えると死ぬよ」
老女はそう言いながら、乾いた布を投げてよこした。
囲炉裏の火で外套を乾かしながら、アニエスは椀を三杯おかわりした。
「で、なんですけど」
ようやく落ち着いた彼女が、椀を置いた。
「旦那様、ドルセー様のお屋敷にまた呼ばれたんです。今月三度目ですよ」
「ドルセー侯爵」
「そう。前は年に一度あるかないかだったのに、急に。しかも夜に呼ばれて、朝まで帰ってこないんです」
マチルドが薪をくべた。火の粉が上がる。老女は何も言わなかったが、手が止まっていた。
「呼ばれた日は、何かお持ちになりましたか」
「箱を持ってました。細長いやつ。作業場の道具箱じゃなくて、二階の金庫のとこから出してきたやつです」
金庫。
年に一度、証石院の巡回のときだけ蓋が開く場所だ。
「あと、これは炊事場で聞いた話なんですけど」アニエスは声を落とした。「旦那様、新しい家石を作るんじゃないかって」
「作れません」
「え」
「家石は新しく作れません」
ヴィオラは膝の上で指を組んだ。
「家石は、家が興ったときに一つだけ定められます。以後は面を足していくだけで、石そのものを替えることはできません。替えられれば、来歴が意味を失いますので」
「じゃあ、あの噂は嘘なんですね」
「嘘というより、言い方が違うのだと思います」
新しい家石を作る、と職人たちが言ったのなら。
彼らが見たのは、たぶん「既にある石に手を加える」作業だ。傍から見れば、新しい石を作っているのと区別がつかない。
噂は、こうして少しずつ形を変える。正しい情報が伝わるのではない。伝わりやすい形に丸められて伝わる。
だから噂は速い。速いかわりに、一部が必ず間違っている。
「アニエス。旦那様は、その箱を持って帰っていらっしゃいますか」
「持って帰ってます。行くときも帰るときも持ってます」
「中身は」
「見てないです。でも」彼女は首をかしげた。「行きより、帰りのほうが重そうでした」
ヴィオラは顔を上げた。
「重そう、というのは」
「持ち替えるんです。門を入ってきたとき、二回持ち替えました。行くときは一回も持ち替えなかったのに」
石は、増えない。
箱の中身が増えたなら、それは石ではなく別のものだ。あるいは――石が、大きくなった。
いや。大きくはならない。
だが、数は増える。
箱に石が一つ入っていて、帰りに二つ入っていたなら。
持ち替えたくなるほどの重さの差が出るとは思えない。だとすれば、増えたのは石ではなく、たとえば道具か、砥石か。
あるいは、削った屑を持ち帰っているのか。
削り屑を持ち帰る職人は、いる。金の混じった石を扱うときは屑も財産になる。だが家石にそんな価値はない。捨てるものだ。
捨てないとしたら、捨てられない理由がある。
夕方、アニエスを丘の下まで送った。
道の両側の枯草に、日が残っている。マチルドの外套を貸したので、アニエスは袖を三度折り返していた。
「あの、ヴィオラさん」
「はい」
「あたし、余計なことしてますか」
「なぜ、そう思われるのですか」
「だって、旦那様のこと嗅ぎ回ってるみたいで。あたし、あの家で三年ごはん食べさせてもらってるので」
ヴィオラは足を止めた。
「そう思われるのでしたら、もういらっしゃらないでください」
「え」
「わたくしのために、あなたが職を失う理由がありません」
アニエスは椀の縁を指で拭いた。それから唇を尖らせた。
「そういうこと言うから、みんなヴィオラさんに何も言わないんですよ」
「そうでしょうか」
「そうです。ヴィオラさん、いつも人に借りを作らせないでしょう。手伝ってもらう前に自分でやっちゃうし、もらう前に断るし」
枯草が鳴った。
「あたし、灰の洗い方を教わったの、返せてないんです。三年ずっと」
ヴィオラは何も言えなかった。
「聞くだけですから。聞くのは仕事のうちです」アニエスは外套の袖をもう一度折り返した。「あと、ヴィオラさん。名前、取り戻せるといいですね」
「名前」
「だって、削ったのはヴィオラさんなんでしょう。全部」
なんでもないことのように、彼女は言った。
言った当人は、それがどれほど重い言葉かを分かっていない。分かっていないから言える。
「……お気をつけて」
「はい。あ、そうだ」
アニエスが振り返った。
「四年前のことなんですけど。あたしが来る前の話で、洗い場のお婆さんに聞いたんです。あの秋、旦那様が一晩だけ、夜中に一人で作業場にいた日があるって。灯りが漏れてて、お婆さんが見に行ったら追い返されたって」
ヴィオラは立ち止まった。
「一晩だけ、ですか」
「一晩だけ。他の日はヴィオラさんが二階の客間にいたって、お婆さんも言ってました。だから、その日だけ変だったって」
「その夜が、いつ頃かは」
「そこまでは。秋だとしか」
秋のうちの一晩。ヴィオラが客間で削っていた、あの十日ほどのどこかだ。
風が、正面から吹いた。
自分は、二階の客間で削っていた。
では、その夜、作業場にいたのは。
「アニエス。そのお婆さんは、まだ」
「三年前に亡くなりました」
ヴィオラは息を吐いた。白くなって、すぐ消えた。
証言する者が、また一人いない。
アニエスは手を振って、坂を下りていった。
ヴィオラは丘の上に戻らず、しばらくその場に立っていた。手袋をしていない指が、外套の裾を握ったまま固まっている。
七枚目の記憶がないのは、眠っていたからだと考えた。
もし、そうではないとしたら。
自分が二階にいた夜に、階下でも誰かが削っていたのだとしたら。




