罠
異変に気づいたのは、その直後だった。
「ちょっと、誰か来て! 木村くんが階段で転んで——! 足が、足がすごく腫れてて動けないって……!」
悲鳴に近い声が、廊下に響き渡った。
控室の扉が勢いよく開き、青ざめた顔の女子が飛び出してくる。
その声を聞きつけた生徒が一人、二人と廊下に出てきて、瞬く間に騒ぎが広がっていく。
俺は足を止めた。
(……まさか)
胸の中で、ざわついていた予感が音を立てて形になった。
俺は踵を返し、騒ぎの方へと駆け出した。
木村は踊り場の壁にもたれ、衣装のまま足首を抱えてうずくまっていた。
すでに目に見えて腫れ上がっている。
立ち上がろうとした木村の膝が崩れるのを見て、集まった生徒たちの顔から血の気が引いた。
開演まで、十分を切っていた。
「ど、どうすんの……ロミオがいなかったら幕上げられないよ……」
「誰かセリフ入ってる人——」
クラスの男子たちが顔を見合わせる。
しかし誰も手を挙げない。
当然だ。
今から台本を渡されて舞台に立てるほど、器用な人間はそうそういない。
「……ねえ」
その時、郁美の声がした。
控室の入り口に立った郁美が、涙をこらえるような目で——しかし迷いのない視線で、真っ直ぐに俺を見ていた。
「達也くん、家でずっと私の練習に付き合ってくれてたから……セリフ、全部覚えてるよね」
その一言で、その場の全員が俺を向いた。
そういうことか。
かなえが倒れたのも。
木村が怪我をしたのも。
よりによって開演直前という、他の誰かが代われないこのタイミングで。
全部が、この瞬間に向かって設計されていた盤面だった。
(ハメられた——)
そこまで考えて、俺は思考を止めた。
待て。
頭の中で、何かが静かに噛み合い始めた。
郁美の幸福度を最大まで引き上げる。
それが呪いを弱める唯一の条件だ。
ならば——郁美が最も望んでいることは何だ。
俺と二人で舞台に立つこと。
ロミオとジュリエットとして、俺だけを見つめて演じること。
今この瞬間、郁美の描いた盤面は奇しくも、俺が必要としている状況と完全に一致していた。
劇の最中、郁美の幸福度が頂点に達する瞬間が来る。
その瞬間に、ポケットの小瓶を使えば——。
(これは、チャンスだ)
罠だと思っていたものが、一転して突破口に見えた。
郁美が仕組んだ盤面の上で、俺は俺の目的を果たせる。
ならば乗ってやる。
乗った上で、終わらせる。
「……あぁ、分かった。俺がやるよ」
俺が頷いた瞬間、郁美の顔にパァッと光が差した。
計算の外側にある、純粋な歓喜。
作り物じゃない、呪いに侵された郁美の感情の核にある、本物の喜悦。
いける、と思った。
あの顔を、今日の舞台でもう一度引き出す。
そして頂点に達したその瞬間に、終わらせる。
ポケットの小瓶の感触を右手で確かめながら、俺は静かに息を整えた。




