開演前
郁美がその気になれば、場の空気を操ることなど造作もない。
問題は——その力が、どこへ向けて使われているかだ。
控室はそこから急速に動き出した。
衣装の最終確認、小道具の搬出、立ち位置の確認。
誰かが台本を読み上げ、誰かが舞台袖の動線を確かめる。
さっきまでの重苦しい空気が噓みたいに、部屋全体が開演に向けて加速していく。
俺はそれを扉の外から少しだけ眺めてから、踵を返した。
自分のクラスへと戻る廊下は、文化祭特有の熱気で溢れていた。
手書きの看板を抱えて走る一年生。
どこかのクラスの出し物の試し鳴らしなのか、廊下の端からくぐもった音楽が漏れ聞こえてくる。
すれ違う生徒たちの顔は一様に浮き立っていて、俺だけが違う場所から来た人間みたいだった。
自分のクラスに顔を出すと、迷路の最終仕上げが佳境に入っていた。
「達也、遅い! こっちの暗幕、ガムテ増やして固定してくれ!」
「あぁ、分かった」
言われるままに作業をこなしながら、俺の意識は半分どこか別のところを漂っていた。
ガムテープを引き剥がす音、段ボールを動かす足音、クラスメイトたちの笑い声——全部が、どこか遠かった。
ポケットの中の小瓶を、無意識に指先で確かめる。
今日中に、成功させる。
それだけが、今の俺を繋ぎ止めている唯一の希望だった。
迷路が完成に近づくにつれて、クラスの熱気はさらに高まっていった。
試しに中を歩いた女子が「少し怖いけど、でも楽しい!」と言いながら出てきて、どっと笑いが起きる。
俺も作業の手を動かしながら、求められれば相槌を打ち、笑うべき場面では笑った。
それだけのことが、今日に限っては妙に消耗した。
やがて、場内アナウンスが流れた。
『各クラス、開演十五分前になりました。最終準備をお願いします』
その声を合図に、廊下の空気が一段階変わった。
ざわめきの質が変わる。
足音が増える。
どこかのクラスから拍手が聞こえてきて、文化祭がいよいよ本番に向けて動き出したのを肌で感じた。
「達也、あとはいいから。お前も一回くらい他のクラス見てきていいぞ」
クラスメイトの一人にそう言われて、俺は「じゃあ少しだけ」と教室を出た。
廊下に出た瞬間、喧騒が一気に押し寄せてきた。
郁美たちの控室の前を通りかかると、扉の向こうから緊張した声と、衣装の擦れる音が漏れ聞こえてくる。
もう本番の空気に切り替わっているのがわかった。
開演まで、あとわずかだ。
(あとは郁美が舞台に立てば——)
そう思いながら廊下の端へ向かいかけた、その時だった。




