木村
「……おい、関谷」
低く、静かな声だった。
それだけで、教室の空気が変わった。
台本を広げていた手が止まる。
衣装を確認していた子が顔を上げる。
さっきまでの慌ただしい熱気が、まるで時間ごと凍りついたように、教室全体がシンと静まり返った。
声の主は、壁際に腕を組んで立っていた木村だった。
今回のロミオ役。
足首の怪我で出演を諦めざるを得なくなった木村が、険しい顔のまま関谷を真っ直ぐに見据えている。
感情的な怒りじゃない。
抑えた、それでいて芯の通った、静かな怒りだった。
「お前、他クラスだろ」
一歩、踏み出す。
「宮野を心配するのは勝手だ。
けど——弱ってる人間に付け込んでベタベタ触んじゃねえよ。
ただでさえ宮野は昨日怪我してんだぞ」
言葉は短かった。
余計な飾りが一切ない、まっすぐな正論。
だからこそ、重かった。
教室にいた全員が、木村の言葉を受けて、ようやく気づいたように関谷と桜の距離を見た。
触れるほどそばに寄った肩。
桜の細い肩にかけられたままの手。
さっきまで「心配してくれてる」としか映っていなかったその光景が、木村の一言で違う色を帯び始めた。
桜はといえば、顔を上げなかった。
ただ、膝の上の台本を握る指先に、ほんの少し力が込められたのを、俺は見逃さなかった。
関谷は、ゆっくりと桜の肩から手を離した。
「ははっ、ごめんごめん」
笑い声すら軽かった。
謝罪の言葉を、まるでコインでも放るように投げてよこして、関谷はひらひらと手を振ってみせた。
「木村の言う通りだな。
ちょっと心配しすぎちゃったわ。
宮野、ごめんな」
桜は何も言わなかった。
小さく首を横に振っただけで、それきり視線を台本に落とした。
「いや、別にお前を責めてるわけじゃ——」
「分かってるって。
木村が正しいよ」
関谷は笑ったまま、一歩引いた。
反論しない。
言い訳もしない。
あっさりと木村の言葉を受け入れて、場を穏やかに収めようとするその立ち居振る舞いに、周囲の視線から棘が抜けていく。
木村が悪者みたいになりかねない、絶妙な引き際だった。
なんてやつだ....
俺は廊下で、壁を後ろ手に掴んだまま、じっとその様子を見ていた。
木村の言葉は正しかった。
正しかったからこそ、関谷にとっては痛くも痒くもない。
正面から反論しても印象が悪くなるだけだと分かっている人間が、最もダメージを受けずに退く方法を、関谷は瞬時に選んでいた。
だが——
関谷が引きながら、ほんの一瞬だけ俺の方へ視線を向けた。
一秒にも満たない、その目。
笑顔の仮面の下に、確かにあった。
木村に向けた「邪魔な奴め」という、静かな、どす黒い感情が。
それに気づいたのは、たぶん俺だけだった。




