境界
「桜ちゃんが代役やるの? 怪我してるのに無理させんなよ、お前ら」
困ったように眉を下げて周囲を窘めながら、関谷はゆっくりと桜の方へと歩み寄った。
その足取りはどこまでも自然で、迷いがなかった。
まるで、そこへ向かうことが最初から決まっていたみたいに。
「まあ、やるしかないなら仕方ないか。
……桜ちゃん、俺が黒子として舞台袖でずっとそばにいてやるよ。
セリフ飛んだって、台本見てフォローするから。な?」
そう言いながら、関谷はごく自然な動作で桜の細い肩にそっと手を回した。
重さのない、それでいて確かな体温を持った手。
桜の肩がびくりと跳ね上がった。
拒絶の反応だった。
かつての桜なら、こんな無遠慮な接触には眉をひそめ、一歩引いて静かに、しかし明確に相手との距離を作ったはずだ。
言葉にしなくても、その凛とした空気だけで相手を退かせることができた。
だが今日の桜は、その一歩が踏み出せなかった。
肩をすくめ、唇を微かに引き結んで、ただ膝の上の台本を見つめている。
振り払うだけの気力が、もうどこにも残っていなかった。
俺は廊下の壁を後ろ手に掴み、その感情を内側に封じ込めた。
関谷の横顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
親身になっている友人の顔。
弱った子を支えようとする、心根の優しい人間の顔。
その目の奥を——俺だけが、見ていた。
桜が拒絶できないと、計算した上でその手を置いている目。
距離を詰めるタイミングを、ずっと待っていた目。
「心配している」という形をとりながら、着実に桜との距離を縮めることを目的にした、静かで粘着質な目。
周囲の生徒たちには、関谷が「桜を気遣っている」としか映っていない。
それどころか、「大変なときに助けてくれる優しい人」という印象をクラス全体に刷り込んでいた。
「ちょっと、桜ちゃんと台本の確認しててもいい? 開演まで時間ないし」
関谷がクラスの子たちに向かって言うと、
「助かる!」
「よろしく!」
と感謝の声が返ってきた。
誰も止めない。
今の桜に自分から関わろうとする奴なんていない。
こうして関谷は、桜の隣の席を、ごく自然に手に入れた。
台本を覗き込む角度で、肩が触れるくらいの距離で。
桜の方はそれでも顔を上げず、ただ台本の文字を目で追っている。
その横顔には、感情らしい感情が何もなかった。
かつての桜なら、こんな距離を許さなかった。
言葉なく場を支配できる子だった。
なのに今の桜は、隣に座る関谷の体温にも、肩口に感じるはずの視線にも、ただ耐えているだけだった。
耐えることと、諦めることの境界線が、もう桜の中でなくなっているのかもしれない。
俺は扉から目を逸らした。
見ていると、本当に、関谷に殴りかかりそうになる。




