代役
かなえが倒れたのは桜のせいだ——そう言葉にしなくても、全員がそう受け取るように計算された、完璧な刃だった。
「……だから、桜ちゃん。かなえちゃんの分まで、お願いできないかな。裏方の仕事はいいからさ」
郁美の声は、限りなく優しかった。
泣き出す一歩手前の、掠れた、細い声。
命令でも強制でもなく——ただ、縋っている。
そう聞こえるように、完璧に調律された声色だった。
桜は、顔を上げなかった。
しばらくのあいだ、台本を見つめたまま静止していた。
抵抗しようとしているわけじゃない、と俺には分かった。
もう、抵抗の仕方を思い出せなくなっているのだ。
かつてどんな理不尽にも真正面からぶつかっていった桜が、いつの間にかそのやり方を——忘れてしまっていた。
それでも。
自分が頷けば、かなえが倒れたのは自分のせいだと、この場の全員に認めることになる。
桜は今もそれをわかっているはずだった。
わかっていて、それでも——。
「あ……」
絞り出すような、消えそうに小さな声だった。
「……う、うん……」
桜は頷いた。
青ざめた顔のまま、誰とも目を合わせないまま。
ただ唇だけが、かろうじて形を作った。
その瞬間、教室がふっと軽くなった。
「よかった……! ありがとう、桜ちゃん!」
「衣装のサイズ確認しようか! 時間ないし急ごう!」
周囲が一斉に動き出す。
誰かが衣装を持ってきて、誰かが台本を広げて見せて、控室はにわかに慌ただしい熱気を取り戻した。
その喧騒の真ん中で、桜だけがひとり、椅子に座ったまま動かなかった。
台本を膝の上に置いて、視線を落として、ただ静かにそこにいる。
喜んでいるわけでも、安堵しているわけでも、後悔しているわけでもない——何も、なかった。
それが一番、きつかった。
かつての桜なら、こんな状況、絶対に黙って飲み込まなかった。
筋の通らないことには正面からぶつかって、言うべきことをはっきり言って、それでも折れない強さを持っていた。
その姿を、俺は誰よりもよく知っていた。
俺はゆっくりと廊下の壁に後頭部を預け、天井を見上げた。
あの桜を、ここまで追い込んだのは——郁美だ。
そして、それを止められなかった……いや、止めなかった。
扉が開いたのは、桜が頷いた直後だった。
タイミングが良すぎた。
「おっ、なんか大変そうじゃん。どうしたの?」
軽い足取りで控室に入ってきた関谷は、状況を把握するや「あらら」とでも言いたげな顔をしてみせた。
別クラスの人間がこの空間にいることへの違和感を、その場の誰も覚えていない——それほど自然に、まるでずっとそこにいたかのように、関谷は教室の空気に溶け込んだ。




