高嶺の花
「うそ……かなえちゃん、保健室から出られないの……?」
震える声。
今にも泣き出しそうな、痛ましくも可憐なその姿に、クラスの誰もが目を奪われている。
(……何が起きた)
廊下の壁に背を預け、俺は静かに息を呑んだ。
ロザライン役の一ノ宮かなえが、極度の胃腸炎で倒れたらしい。
これが郁美の言っていた『アイデア』の幕開けだと、容易に想像がついた。
郁美の震える声が教室に落ちた瞬間、シン……と静寂が満ちた。
視線が動き始めたのは、それからすぐのことだった。
最初のひとりが、おずおずと部屋の隅へ目を向ける。
それを見た隣の子が同じ方向に視線を流す。
まるで水面の波紋のように、教室全体の目が——ゆっくりと、しかし確実に——桜へと収束していった。
(やめろ)
扉の外で、俺は奥歯を噛み砕きそうなほど食いしばった。
窓際の椅子に、桜はいた。
昨日の怪我を庇うように体を小さく丸め、膝の上に台本を置いたまま俯いている。
その横顔を見た瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走った。
凛とした瞳の奥にあったはずの輝きも強さも、もはやそこにはなかった。
(桜……)
郁美の工作が始まってから、桜の心はじわじわとすり減り続けてきた。
授業中のひそひそ話。
何気なくすり替えられた文脈。
気がつけばクラス全体が、桜を「高嶺の花」ではなく「問題のある子」として見るようになっていた。
郁美の腕に残った傷痕が「桜にやられた」という話になったことが決定打となり、桜の周囲の空気は取り返しのつかないところまで変わってしまった。
かつて桜に憧れていた子たちが、今は腫れ物に触るように距離を置いている。
それでも桜は、ずっとひとりで立ち続けてきた。
泣き言を言わず、誰かに縋らず、ただ黙って毎日学校に来続けた。
その最後の踏ん張りが、今日ついに、限界を超えようとしていた。
「……あのさ」
最初に口を開いたのは、郁美の隣の女子だった。
悪意のない、ただ困り果てた声で。
「桜ちゃんって、去年も舞台の経験あったよね? 台本ももらってたって言ってたし、セリフもある程度は……」
「裏方より絶対こっちの方が向いてるよ。ね?」
そこへ、郁美がとどめを刺した。
「……かなえちゃん、最近の、桜ちゃんの件でクラスの空気が悪くって……それでお腹を痛めちゃったみたいなの」
一瞬の間があった。
その一言が、静かに、しかし確実に教室に染み込んでいくのを俺は感じた。
誰も責めない。
誰も断言しない。
ただ事実を並べるだけの、それでいてこの上なく残酷なひと言。




