文化祭当日
朝。
目覚めた瞬間から、胃の奥に鉛を飲み込んだような重苦しい吐き気が居座っていた。
「おはよう、達也くん! ふふっ、今日はいよいよ文化祭だね!」
隣から甘ったるい声が降ってくる。
俺は無理やり口角を引きつらせ、「あぁ、そうだな」と返した。
郁美はすでに身支度を完璧に整え、俺の部屋のキッチンで鼻歌を歌いながら朝食のトーストを焼いていた。
その上機嫌とは裏腹に、俺の心は凍てついたままだった。
ブレザーのポケットに忍ばせた小瓶——潰した彼岸花の花粉と汁——今日こそこれで郁美を正気に戻す。
その思いだけを胸に秘め、俺はトーストに齧り付いた。
二人で並んで歩く通学路。
抜けるような冬晴れの空の下、すれ違う生徒たちはみな今日から始まる非日常に浮き足立ち、笑い声を響かせている。
郁美もまた俺の右腕にぴったりと体を密着させ、
「劇のセリフ、噛まないようにしなきゃ」
「終わったら達也くんのクラスの迷路にも遊びに行っていい?」
と、普通の恋人同士のような愛らしい笑顔を向けてくる。
だが俺の頭には、昨日見捨てた桜の虚ろな瞳と、あの絶望の叫び声がこびりついて離れなかった。
学校に到着すると、色とりどりの装飾が施された正門が俺たちを出迎えた。
「それじゃあ達也くん、また後でね! 絶対に見に来てよ?」
昇降口で郁美と別れ、俺はホームルームへと向かった。
クラスの出し物は迷路だ。
ホームルームが終わるや否や、クラスメイトたちは段ボールや暗幕を抱えて慌ただしく動き出し、教室は一気に文化祭特有の熱気に包まれた。
だが俺はどうしても作業に身が入らなかった。
関谷の姿が見当たらないことも、胸騒ぎに拍車をかけていた。
(郁美が昨夜言っていた『完璧にするためのアイデア』って……一体、何を仕掛ける気だ)
堪えきれず、俺は「ちょっと他のクラスを覗いてくる」と言い残して教室を抜け出した。
喧騒に包まれた廊下を早足で進み、郁美たちのクラス——『ロミオとジュリエット』の控室となっている教室の前に立つ。
その瞬間、俺は足を止めた。
周囲のクラスが文化祭の明るい熱気に満ちているというのに、扉の向こうから滲み出てくるのは、何かが張り詰めたような、息苦しいほどの沈黙だった。
そっと後扉から覗き込む。
黒板には華やかな装飾が施され、煌びやかな衣装が並んでいるというのに、生徒たちの顔は一様に青ざめ、ヒソヒソと焦燥感を帯びた声を交わしている。
パニックの一歩手前——そんな異様な空気が充満していた。
その中心で、台本を胸に抱きしめた郁美が、悲劇のヒロインそのものといった面持ちで口元を両手で覆っていた。




