木村
「……美味しい、達也くん?」
郁美は俺の顔を覗き込み、心底嬉しそうに、歌うような声で聞いてきた。
「ああ。最高だよ、郁美」
喉の奥にへばりつく鉄の味を無理やり飲み込み、俺は微笑んでみせる。
視線の先では、桜が小さく肩を震わせながら、床に落ちた筆を拾い上げていた。
彼女は一度もこちらを振り返ることなく、まるで自分の気配を消すように、また黙々と看板の文字を塗り始める。
その桜の背中を、郁美は満足そうに、いや、憐れむような目で見つめていた。
自分の作った完璧なシナリオ。
自分のためだけに笑う彼氏。
郁美の脳内に、極上の幸福感が満たされていくのが、隣から伝わってくる不気味なほどの熱量で分かった。
試しにポケットから彼岸花を取り出し、郁美の手を握る素振りをして押し当ててみた。
「….ん?どうしたの、達也くん」
(まだダメか……)
首を傾げる郁美に、いつもの弱気でおどおどした様子は微塵もなかった。
これだけあいつの望む言葉を注ぎ込み、満足させているつもりでも、呪いはビクともしない。
ケンさんの言う「幸福が最高潮に達し、願望が満たされる瞬間」には、まだ程遠いらしい。
あの日の夜から、郁美は完全に俺の家に住み着いている。
実質的な同棲生活。
朝、俺の家のキッチンで郁美がトントンと小気味よく包丁を動かしてお弁当を作り、二人で並んで登校する。
周りから見れば、それは微笑ましい熱愛風景にしか見えなかっただろう。
俺自身、郁美を油断させるために必死で完璧な彼氏を演じ続けていた。
だからこそ、今なら少しは呪いが弱まっているのではないかと、淡い期待を抱いてしまったのだ。
そして、並んで歩くたびに嫌でも視界に入る、郁美の右手に巻かれた白い包帯。
学校中の連中は、あの傷を「桜が嫉妬に狂って郁美を傷つけたもの」だと信じ込んでいた。
本当は、郁美が自分で自分を傷つけた『自傷行為』の跡だとも知らずに。
被害者を演じる郁美への同情が集まるにつれ、桜への風当たりは日を追うごとに強くなっていった。
自分の心を殺し、ただロボットのように郁美に寄り添う日々。
そんな中、文化祭二日前の放課後、俺は廊下で桜と同じクラスの木村に呼び止められた。
周囲を気にするように、低い声で木村が俺に告げる。
「おい、達也。お前ちょっとは宮野のこと気にかけろよ」
「……木村」
「いくらなんでも無視しすぎだろ。お前ら、一応は幼馴染なんだろ?
クラスの女子の奴らもさ、宮野が郁美ちゃんを傷つけたって総攻撃状態だけど……
お前、ちょっとは今の宮野のこと庇ってやれよ」
木村の言葉は俺の胸を痛いほどついた。
だが、俺は何も言えずにただ視線を落とすことしかできない。




