冷気
俺が笑顔で答えると、郁美は「うん!」と満面の笑みを浮かべ、当然のように俺の左腕に自分の腕を絡ませてきた。
そのまま、郁美と桜のクラスへと向かう。
クラスの引き戸を開けた瞬間、教室内を包む独特の熱気と、それとは対照的な「冷気」が肌に触れた。
文化祭の準備で盛り上がっている教室の片隅。
ベニヤ板のパネルや段ボールが雑然と置かれた一角で、桜がたった一人、床に膝をついて作業をしていた。
看板の文字を塗る作業のようだったが、周囲の女子グループは桜を完全に無視して楽しそうに談笑している。
誰も桜を手伝おうとしないし、声をかけようともしない。
昨日の多目的室のこともあって、桜はクラスの中で完全に「腫れ物」であり、「悪者」にされていた。
一人ぼっちで絵の具の筆を握る桜の背中は、痛々しいほど小さく、震えて見えた。
「達也くん、こっちの席にしよ?」
郁美が選んだのは、そんな桜の姿がはっきりと視界に入る席だった。
同時に桜の視界からも、俺たちの姿がはっきり見える席でもあった。
「はい、これ。頑張って作ったんだよ?」
郁美は机を二つくっつけると、丁寧に手作りのお弁当を広げた。
色鮮やかで、手の込んだ卵焼きやおかずが綺麗に並んでいる。
「美味しそうだな。わざわざ作ってくれてありがとう、郁美」
「ううん、達也くんのためだもん。あ……でも、まだ手が少し痛いから、上手くお箸が持てないかも……」
桜にも聞こえるようにそういった。
郁美は包帯の巻かれた右手を少しだけ持ち上げ、困ったように眉を下げた。
それでも、お箸で器用に卵焼きを挟むと、それを俺の口元へと差し出してきた。
「これなら……うん…はい、達也くん。あーん、して?」
天使のような純粋な笑顔。
だが、そのハイライトのない真っ黒な瞳は、俺の反応を一瞬たりとも見逃さないようにじっと凝視している。
(……くそっ……!)
胸の奥から、どす黒い怒りが込み上がってくる。
視線の端で、床に座り込んでいた桜の動きが、ピタリと止まるのが分かった。
桜はこちらに顔を向けられないまま、完全に硬直している。
今すぐこのお箸を跳ね除けて、あそこへ駆け寄り、桜の手を掴んでこの教室から連れ出してやりたい。
(まだだ……今は耐えろ、俺……。本気で演じろ……!)
俺は胃の奥の痛みを必死に噛み殺し、これまでで一番優しい恋人の笑みを浮かべた。
「ありがとな、郁美」
そう言って、俺は郁美の差し出した卵焼きを、迷いなく口に含んだ。
それを見た郁美の顔が、見たこともないほどの歪んだ歓喜に染まっていく。
そして——
かすかに聞こえた、桜の筆が床に落ちる小さな音が、俺の耳に冷たく突き刺さった。




