郁美のクラス
「良かった……間に合って……あ、今日ね、達也くんの好きなハンバーグ作ったんだよ」
「……あぁ。ただいま、郁美。ハンバーグ、楽しみだな」
俺は努めて、今までで一番優しい笑顔を作って見せた。
ケンさんの言った「幸せが最高に高まる瞬間」を作り出すために。
俺の本気の演技がここから始まる。
郁美は嬉しそうに俺の腕に抱きついてきて、ふふっ、と鼻を鳴らした。
「……あれ? 達也くん、なんだか、草の匂いがするね」
ハイライトのない真っ黒な瞳が、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
「……ううん、何でもない! 無事に帰ってきてくれたもんね。さあ、手、洗ってきて?」
「あぁ……そうするよ」
洗面所に向かいながら、俺は先ほど近くの草原で手に入れた彼岸花をポケットの中でぎゅっと握りしめた。
俺がこれからやるべきことは、郁美に一切逆らわず、彼女を世界一の幸せ者にすること。
そしてそれは、桜が傷ついていくのを、ただ黙って眺めることしか出来ないということを意味していた。
しかし、もう覚悟は決めていた。
あと少し、あと少しなんだ。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、酷く強張っていた。
蛇口から流れる冷水で何度も顔を洗い、ポケットの中の彼岸花を制服の奥深くへと仕舞い込む。
リビングに戻ると、郁美は嬉しそうにハンバーグを皿に盛り付けていた。
その夜。
俺の家に泊まった郁美は、いつも通り俺のそばを離れようとしなかった。
ベッドの中で背中に回される腕。
部屋に満ちる郁美の甘い匂い。
そして俺はただ「優しい彼氏」としての言葉を紡ぎ、あいつを安心させることに徹した。
すべては、呪いを打ち消すために。
翌日。
昼休みのチャイムが学校中に鳴り響いた。
教科書を机に片付けていると、俺のクラスの前のドアから、クラスの男子たちの色めき立つ声が聞こえた。
「郁美ちゃん今日も可愛いー!」
「天使が来たぞーー!!」
「達也が嫌になったらいつでも俺のとこ来てくれよなーー!」
「ほら、達也! 今日も郁美ちゃん来てるぞー! このやろー!」
関谷はもはや俺がリア充であることに吹っ切れているのか、笑顔で茶化してくる。
見ると、そこには今朝、家で作っていた手作りのお弁当袋を大事そうに抱えた郁美が立っていた。
包帯の巻かれた右手で、健気にお弁当を胸に抱きしめている。
ほとんどの高校生男子の夢のような光景だ。
「達也くん、お疲れ様!」
俺の姿を見るなり、郁美はパッと表情を輝かせて駆け寄ってきた。
「達也くん、あのね、今日のお弁当……もし良かったら、私のクラスで一緒に食べない?」
上目遣いで、少し遠慮がちに俺の顔を覗き込んでくる。
断る、という選択肢は最初から存在しない。
ここで少しでも拒絶の素振りを見せれば、郁美の機嫌を損ねるかもしれない。
「いいの? 嬉しいな。じゃあ、行こうか」




