解放
「帰ろっか、達也くん」
当然のように、郁美の右腕が俺の左腕に絡みつく。
怪我をしていない方の手で、逃がさないようにしっかりと。
西日に照らされた廊下を歩きながら、俺の心は完全に折れかけていた。
(もう、どうしようもないのか……)
一之宮も、関谷もダメだった。
学校という空間は、完全に郁美に支配されている。
だが、校門を抜けようとした、その時だった。
「……達也くん」
不機嫌そうな、しかし芯のある低い声。
顔を上げると、校門の傍らに腕を組んで壁に寄りかかる、見慣れたシルエットがあった。
水泳部の後輩、和政だ。
「和政……お前、なんでここに」
「なんでって、達也くんが水泳にも顔出さないし、LIMEも既読つないから、直接来たんだよ」
「そっか….」
そして和政はズカズカとこちらに歩み寄ってくる。
その威圧感に、郁美が少しだけ俺の腕を引いた。
だが、すぐにいつもの『完璧な彼女』の顔を作る。
「あ、和政くんだ。いつも達也くんがお世話に——」
「達也くん、ちょっと一緒にきて」
和政は郁美の笑顔を完全に無視し、俺の空いている方の右腕をガシッと掴んだ。
水泳で鍛え抜かれた後輩の力は恐ろしく強い。
強引に引き剥がされるような力に、郁美の指が俺の腕からズルリと外れた。
「な、何するの……? 達也くんは、今日は私と帰る約束——」
「郁美ちゃんは黙っててよ」
和政は鋭い視線を郁美に向けた。
「『獄門』から帰ってきてから、郁美ちゃん、あんた気味悪いんだよ。
……それに達也くん、なんだよその死んだ魚みたいな目は。
目の下にクマも出来てるし、親のことで大変なのはわかるけど、達也くんそんなヤワじゃなかったでしょ」
「いや、和政、俺は……」
「行こう。例の『呪い』のこと…..ケンさんに聞きにいくよ……
このままじゃ達也くん、本当にダメになっちゃうよ」
和政は有無を言わさず俺の背中を押し、強引に歩き出させた。
一度は郁美が俺の手を強く引っ張って引き止めようとした。
しかし、周囲には下校する生徒たちが大勢いる。
郁美は『悲劇のヒロイン』あるいは『優しい彼女』でいなければならない。
だから、ここで大声を出したり、力ずくで奪い返したりするような真似はできなかったのだろう。
振り返ると、郁美が校門の前にポツンと取り残されていた。
夕日を背に受け、ピタリと立ち止まったまま。
口角だけを不自然に吊り上げ、ハイライトの消えた真っ黒な瞳で、こちらをじっと見送っている。
「……気をつけてね、達也くん」
周囲の喧騒の中でも、その声だけは不気味なほどはっきりと、俺の耳に届いた。
「20時の夕ご飯までには、絶対に帰ってきてね……そうしないと私…….」
その言葉の裏にある冷たい圧に背筋を凍らせながらも、俺は和政に引かれるまま、久しぶりに郁美から解放された気がした。




