昨日のこと
「……郁美、朝だぞ。」
「んん……」
薄く目を開けた郁美は、
俺の顔を認識した瞬間、
ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。
「……おはよう、達也くん。
えへへ……夢みたい」
そう言って身を起こした彼女の手が、
真っ先に自分のカーディガンのポケット――
俺から奪い取ったスマホが入っている場所――を確認したのを、
俺は見逃さなかった。
背中に冷たい汗が伝う。
「朝ごはん、できてるから」
「ほんと?
達也くんの手作り……嬉しいなっ」
食卓に向かい合う二人。
客観的に見れば、
お泊まりの翌朝の、
初々しいカップルのような光景だろう。
だが、俺にとっては
息が詰まるような時間だった。
郁美は終始ご機嫌で、
俺の作った味噌汁を
「美味しい、美味しい」と飲んでいる。
その笑顔の裏側にある
底知れない暗闇が、
ふと俺の脳裏をよぎる。
やがて準備を終え、
二人で家を出る。
当然のように、
郁美は俺の腕に
自分の腕を絡ませてきた。
「今日も一緒に行けるね。
……ずーっと、一緒だよ」
「……ああ」
学校に着くと、
流石に先生には逆らえないと悟ったのか、
ホームルームが始まるギリギリまで名残惜しそうに、
「じゃあね、
またお昼にすぐ来るからね。
寂しいなあ」
と言いながら、
教室を出て行った。
朝のホームルーム。
この時間だけが、
郁美以外の誰かと比較的まともに話せる、
貴重な時間だった。
俺は隣の席の一之宮へ
小さく声をかける。
「一之宮……昨日のことなんだけど」
「……」
一之宮は、
なぜかずっと俺と目を合わせようとしない。
顔色も悪かった。
まるで一晩中眠れていないみたいに青ざめていて、
どこか怯えているようにも見える。
「桜じゃなくて、
屋上にいたの郁美だったんだ。
……何かあったのか?」
俺が声を潜めて尋ねると、
一之宮は唇を強く噛み締め――
やがて、深々と頭を下げた。
「……ごめん、達也」
「え……?」
「俺、もう……
お前のこと、手伝えないかも……」
その言葉に、
胸の奥がざわつく。
「……どうした?」
俺は思わず、
一之宮の顔を覗き込んだ。
「郁美に……
何かされたのか?」
「……っ」
一之宮の肩がびくりと震える。
それから彼は、
周囲を警戒するように
何度も視線を彷徨わせた。
クラスメイトたちが
雑談していることを確認してから、
ようやく小さな声で話し始める。
「昨日さ……
お前のメモを桜ちゃんに渡そうと思って、
A組の方に行ったんだ」
「……ああ」
「そしたら……
郁美がいた」
「……」
「教室の前で、待ってたんだよ」
「……待ってた……?」
「ああ……。
まるで、俺が来るのを
最初から分かってたみたいだった」
一之宮は乾いた唇を舌で湿らせながら、
震える声で続けた。




