禾乃登――母と息子の稲むすび
禾乃登――母と息子の稲むすび
九月二日の朝、富子は薄い藤色の七分袖シャツに紺のもんぺを合わせ、台所の小窓を少しだけ開けた。夜の名残を含んだ風が網戸を震わせ、炊飯器から立ちのぼる新米の匂いを六畳の和室まで運んでいく。流しには昨夜の麦茶を入れたガラスのコップが二つ残り、物干し竿では洗ったばかりの白い肌着が、頼りなく袖を揺らしていた。
「今日は、禾乃登なんだって」
座卓の前で、息子の信夫が灰色のTシャツへ頭を通した。寝癖のついた髪が襟に引っかかり、顔が一瞬だけ布の中へ消える。富子は味噌汁の鍋へ刻んだ油揚げを落としながら、その姿を見て笑った。
「のぎ、すなわち、のぼる?」
「登るじゃないよ。実ると読むの。こくものすなわちみのる」
「読めないよ。学校で習った記憶がない」
「私だって、昨日知ったのよ」
信夫は眼鏡をかけ、座卓に置かれた暦の本を引き寄せた。開いた頁には、まだ青みの残る稲穂が並び、その先に細い毛が伸びている。窓の外から自転車のブレーキ音が聞こえ、続いて近所の子どもが母親を呼ぶ声がした。
「この毛が禾なの?」
「そうみたい。稲だけじゃなくて、粟や稗にも使う字なんだって」
「ひえって、驚いたときの『ひええ』?」
「食べるほうの稗。あなた、朝から調子がいいわね」
朝食は、塩鮭と小松菜のおひたし、それに豆腐と油揚げの味噌汁だった。信夫は鮭の皮を箸で丁寧にはがし、皿の端へまっすぐに並べてから、ご飯をひと口食べた。炊きたての米は噛むたびに甘くなり、湯気で眼鏡が白く曇った。
「新米って、こんな匂いだったんだね」
「去年も食べたでしょう」
「去年の九月に何を食べたかなんて覚えてないよ」
「私は覚えてる。あなたが炊飯器の水加減を間違えて、お粥みたいにしたの」
「あれは新米が水を吸いやすいって知らなかっただけだよ」
富子は鮭の小骨を指先でつまみ、新聞紙を折って作った小さなごみ箱へ入れた。去年の失敗を思い出すと、台所いっぱいに広がった柔らかな米の匂いまで戻ってくる。あの日は二人で鍋を囲み、失敗したご飯へ卵と葱を加えて雑炊にした。
「でも、おいしかったわよ」
「失敗した人に、二杯目をよそわせたくせに」
「食べ物は粗末にできないでしょう」
「母さんは、残すくらいなら食べすぎる人だからね」
朝食のあと、二人は近所の区民農園まで歩くことにした。富子は麦わら帽子をかぶり、首へ白い手拭いを巻いた。信夫は黒いジャージの裾を靴下へ入れ、青い水筒と、念のための折り畳み傘を布の手提げへ入れた。
「その格好、畑泥棒に間違えられない?」
「蚊に刺されるよりいいよ」
「暑くなったら、無理しないで帰るのよ」
「母さんもね。昨日、扇風機をつけたまま畳で寝てたでしょう」
「横になっていただけ」
「いびきをかきながら?」
アパートを出ると、陽射しにはまだ夏の強さが残っていた。アスファルトから温められた埃の匂いが立ち、電柱の影には昨夜の雨が小さな水たまりを作っている。道端では、朝顔の青い花が半分ほど閉じ、隣の家の軒下には赤とんぼが一匹止まっていた。
「秋は来てるのかな」
「来てるわよ。急に玄関を開けて入ってくるんじゃなくて、少しずつ近づいてくるの」
「秋にも礼儀があるんだね」
「夏にはないけどね。今年もずいぶん居座ったもの」
区民農園の奥には、観察用に残された小さな田んぼがあった。青々としていた稲は薄い黄金色へ変わり始め、重くなった穂が一斉に頭を垂れている。風が渡るたびに葉と葉が触れ合い、さらさらという音が細い水路の流れる音と重なった。
「本当に頭を下げてる」
「実るほど頭を垂れる稲穂かな、っていうでしょう」
「僕は何も実ってないのに、いつも下を向いてるよ」
信夫はそう言って、ジャージのポケットへ両手を入れた。水路の泥から青臭い匂いが上がり、遠くで草刈り機が低い音を響かせている。富子は返事を急がず、帽子の紐を結び直してから、稲穂の向こうを飛ぶ白い蝶を目で追った。
「毎朝起きて、ご飯を食べて、薬を忘れないようにして、今日はここまで歩いてきたでしょう」
「それは実ったうちに入らないよ」
「入るわよ。人間の実りを、田んぼと同じ物差しで測らないの」
「ずいぶん小さな実だね」
「小さい実ほど、こぼさず拾わなくちゃ」
田んぼの管理をしている老人が、泥のついた長靴で畦道を歩いてきた。色の褪せた作業着の胸ポケットには赤いボールペンが差さり、腰には黄色いタオルが下がっている。老人は二人を見ると、稲穂を一本だけ手のひらへ載せた。
「まだ刈れないよ。あと少し、陽を浴びてもらわないとな」
「台風が来るかもしれませんね」
「そうなんだよ。今ごろは二百十日っていって、昔から風を怖がった。実り始めたときが、一番気を抜けないんだ」
信夫は稲穂へ顔を近づけた。乾きかけた藁の匂いに、濡れた土と水草の匂いが混じっている。穂先へ触れようと伸ばした指を途中で止め、代わりに背中を丸めてじっと見つめた。
「せっかく育ったのに、台風で倒れたら終わりですか」
「起こせるものは起こす。駄目になったところを除いて、残った穂を刈る。全部が無事な年なんて、そうそうないよ」
「倒れても、また起こしてもらえるんですね」
「人手があればな。一人じゃ難しいから、みんなでやるんだ」
帰り道、二人は商店街の米屋へ寄った。店先には「令和八年産新米」と墨で書かれた紙が貼られ、麻袋のそばに小さな稲束が飾られている。富子は財布の小銭を確かめ、一キロだけ量ってもらった。
「家にもお米があるよ」
「これは今日のお土産。禾乃登の記念よ」
「朝も新米だったでしょう」
「同じ日に二回食べたって、罰は当たりません」
アパートへ戻ると、物干し竿の肌着はすっかり乾いていた。富子が洗濯物を取り込むあいだ、信夫は台所に立ち、新しく買った米をざるへ入れた。水を注ぐと白い濁りが渦を巻き、米粒が指の間をさらさらと滑った。
「水は少し控えめだったよね」
「去年のこと、ちゃんと覚えてるじゃない」
「失敗は覚えてるんだよ」
「成功したことも覚えておきなさい。今日は農園まで歩けたでしょう」
「それ、何度も言うね」
「忘れないように言ってるの」
夕方、窓の外が薄い橙色に染まる頃、二人は新米で小さな塩むすびを作った。富子は手のひらへ塩を広げ、熱いご飯を右、左と転がした。信夫のむすびは力を入れすぎて丸く固まり、富子のものは三角形の片側だけが少しへこんだ。
「母さんの、形が変だよ」
「食べれば同じ」
「僕のは硬いかもしれない」
「倒れないおむすびね」
「稲は倒れても起こしてもらえるけど、これは誰も起こせないよ」
二人は冷めかけた味噌汁と、昼に残した小松菜のおひたしを座卓へ並べた。海苔を巻いていない塩むすびからは、米そのものの甘い匂いがした。富子がひと口かじると、信夫も形の崩れない硬いむすびへ歯を立てた。
「おいしい?」
「うん。噛んでると甘くなる」
「お米も人間も、急いで飲み込んだら味が分からないのよ」
「じゃあ僕は、まだ噛んでる途中かな」
「そうね。私もまだ途中」
開けた窓から、昼間より涼しい風が入ってきた。遠くで誰かが雨戸を閉め、商店街から焼き鳥の煙と醤油の匂いが流れてくる。富子は皿に落ちた米粒を濡らした指先で拾い、口へ運んだ。
「明日も歩けるかな」
「明日の体と相談しましょう」
「途中で引き返してもいい?」
「もちろん。倒れたら、起こせるところから起こせばいいのよ」
信夫は残った塩むすびを半分に割り、富子の皿へ片方を置いた。少し硬く握られた米粒は、割れ目から湯気を立てていた。二人は黄金色の田んぼの話をしながら、ひと粒も残さず、今年最初の実りを食べ終えた。




