禾乃登の風 9月3日
禾乃登の風
台所の流しに残った、今朝のアジの開きから剥がした皮と頭の生臭さが、ぬるい湿気とともに鼻を突いて居間まで漂ってくる。私は汗で首筋に張り付いた首回りの伸びた丸首シャツの襟元を右手で何度もパタパタと引っ張り、障子の隙間から見える隣の空き地に干しっぱなしのバスタオルをぼんやり見つめていた。今日が二百十日だから早く取り込んだほうがいいと昨晩のうちに母に言おうと思っていたのに、夜勤明けの疲れですっかり忘れてしまい、今になって急に胸のあたりが落ち着かなくなってくる。
「おい、そのシャツ、もう雑巾にするって言っただろ。いつまで着てんだ」
仏壇の横に腰を下ろした父は、膝に穴のあいた茶色いスウェットパンツの毛玉を太い親指で執拗にむしり取っている。居間の壁には去年のガス屋の粗品カレンダーがまだ九月のまま掛けられていて、窓の外からは湿った生ぬるい風が吹くたびに、庭の青じその枯れ葉が擦れ合うカサカサという乾いた音が障子を震わせていた。この時期の風はただの風ではなく、遠くの海で渦を巻いている雨雲を運んでくる重たい気配を含んでいるから、毎年このにおいを嗅ぐだけでなんとなく胃の腑が縮み上がるような心地がしてくる。
「首が伸びてるほうが風が通って涼しいんだよ。それより裏の田んぼ、水抜いたの? ラジオで台風が来るって言ってたよ」
私は畳の上に脱ぎ捨ててあった昨日の靴下を足の指先で器用に摘み上げ、部屋の隅の洗濯カゴへと放り込んだ。テーブルの上には、朝に飲み残して膜が張ってしまった油揚げと豆腐の冷めた味噌汁の椀が、底の丸い輪染みを茶色い木目に残したまま放置されていて、その縁に小さな黒いコバエが一匹だけ止まっている。高校生の頃、台風が来る前日に学校が早く終わって嬉しくて寄り道した駄菓子屋で、湿気た麩菓子を買い食いして母にひどく怒られたことを思い出し、喉の奥に苦い後味のようなものがよみがえってくる。
「昼前に見に行ったら、穂先が少し黄色くなって頭を垂れてた。禾乃登って言うんだろ、こういう時期をよ。今夜の風で倒されなきゃいいがな」
父はむしり取った毛玉を畳の上に指で擦りつけ、立ち上がると腰の骨をポキリと鳴らした。仏壇の線香立てには燃え尽きて白くなった灰がこぼれ落ちていて、その隣に置かれた湯呑みにはいつ淹れたか分からない出がらしの茶が濁った緑色を沈ませていた。風鎮めの祭りの太鼓が遠くの神社からかすかにドンドンと響いてくるのを聞きながら、父が若い頃にその祭りで神輿を担いで肩の皮を派手にむいた自慢話を、毎年のように聞かされる退屈な夜が今年もまた始まるのだと察して指先を絡め合わせた。
「大丈夫だよ、去年より茎が太いって、この前軽トラの荷台で言ってたじゃない。晩ごはん、冷凍のコロッケ揚げるけど食べる?」
私は台所へ戻ると、使い古して毛羽立った花柄のエプロンを頭からかぶり、腰の紐をきつく二度結んだ。コンロの脇には油の跳ねた跡が点々と茶色く固まっていて、換気扇のスイッチを入れると、キーという錆びた金属の擦れる重い音が狭い部屋いっぱいに響き渡る。台風が来る前の夜の空気はどうしてこんなにも身体を重くさせるのだろうと考えながら、私は冷凍庫の引き出しを乱暴に引いて、霜のびっしりついた茶色いコロッケの袋を握りしめた。
「ソースはどっちだ。ウスターはあるか? とんかつソースじゃなくて、あの水っぽいやつがいいんだよ」
父がすり足で板の間までやってきて、冷蔵庫の側面に貼られた水道修理のマグネットを指先で無意味にいじくり回した。外の風はいよいよ勢いを増してきたようで、トタン屋根のひさしがカタカタと乾いた音を立てて小刻みに揺れ始め、雨の匂いが網戸の目を通してじんわりと鼻腔をくすぐってくる。今夜は風の音で何度も目が覚めるに違いないと確信しながら、私は引き出しの奥から賞味期限の少し怪しい黄色いラベルのソース瓶を引っ張り出し、油の温まるパチパチという低い音に耳を澄ませた。
「あるよ、奥にちゃんと入ってた。油が跳ねるから、そこ立ってないでテレビでもつけて台風情報見ててよ」




