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季節の織り糸 第三十八候 立秋 次候 寒蝉鳴

季節の織り糸 第三十八候 立秋 次候 寒蝉鳴


八月十二日の朝、みるくはジュレットの自宅の窓を開けた。

潮の匂いを含んだ風がカーテンをふくらませ、机の上に置いていた便せんが一枚、床へ滑り落ちたので、みるくは慌てて裸足のまま拾いに行った。

今日は薄い水色のワンピースに白いサンダルを合わせ、髪には小さな貝殻の髪飾りをつけている。

台所からは昨夜のうちに冷蔵庫へ入れておいた麦茶の匂いがして、みるくはコップに氷を二つ浮かべると、喉を鳴らして一気に飲んだ。

窓の外では太陽がもう高くなり始めているのに、海から吹く風には、ほんの少しだけ夏の終わりを思わせる涼しさが混じっていた。


「なんだろう……今日は、いつもの夏と違う気がする」


みるくはコップをテーブルに置き、窓辺へ戻った。

ジュレットの町では、朝から魚を運ぶ人の声が聞こえ、露店では焼き立てのパンが並べられている。

通りを歩く人たちはまだ夏の服装で、麦わら帽子をかぶった子どもが水桶を抱えて走っていた。

けれど、海の向こうから聞こえてくる音の中に、昨日までとは違うものが混ざっている。

みるくは耳を澄ませた。


「……カナカナ、って聞こえる」


ヒグラシだった。

まだ昼前だというのに、林のほうから細く高い鳴き声が届いてくる。

みるくは冷蔵庫から昨日買ったアジの干物を取り出し、網に乗せながら耳を澄ました。

焼き始めると、魚の脂が熱で弾け、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がる。

ジュウジュウという音とヒグラシの声が重なり、みるくは火を弱めながら首を傾げた。


「ヒグラシって、夕方に鳴くんじゃなかったっけ?」


そこへ、玄関の扉が勢いよく開いた。

友達のいおりが、汗をぬぐいながら入ってくる。

いおりは白いシャツに紺色の短パン姿で、肩には小さな革袋を下げていたが、その袋からは何やら木の実がいくつも飛び出していた。

みるくが拾って袋へ戻してやると、いおりは申し訳なさそうに笑った。


「林を歩いてきたら、いっぱい落ちてたんだよ」


「また拾ってきたの? この前も机の引き出しから木の実が出てきたよ」


「だって、形が面白いんだもん。ほら、これなんて魚みたいだろ?」


「……うん。ちょっとだけ魚に見える」


「ちょっとだけって何さ」


みるくは笑いながら、焼き上がったアジを皿に移した。

大根おろしを添え、冷蔵庫から冷たい麦茶を出すと、二人は小さな食卓に並んで座った。

いおりは箸を持ったまま、しばらくヒグラシの声に耳を傾けていた。

焼き魚の皮を箸でつつくと、ぱりっと音がして、白い身から湯気が立つ。

みるくはその匂いを吸い込みながら、ふと去年の夏を思い出した。


「去年も、この時期にヒグラシを聞いたっけ?」


「聞いたよ。覚えてないの?」


「覚えてるような、覚えてないような……」


「みるくは海のことばっかり覚えてるんだよ」


「だって海は毎日違うから」


そう言ってから、みるくは箸を止めた。

去年の夏は、朝から晩まで太陽が照りつけて、海辺には水着姿の冒険者があふれていた。

夜になっても砂浜は昼間の熱を残し、冷たい飲み物を買ってもすぐにぬるくなった。

それなのに今年は、蝉の声が少しずつ変わり始めている。

夏はまだ終わっていないのに、季節のほうが先に歩き出しているようだった。


「ねえ、みるく」


「なに?」


「今日、林へ行ってみない?」


「ヒグラシを探すの?」


「うん。声は聞こえるのに、姿を見たことがないんだ」


みるくは窓の外を見た。

青い海の上には白い雲が浮かび、遠くの山には濃い緑が広がっている。

食べ終えた皿にはアジの骨が残り、いおりは大根おろしまできれいに食べていた。

みるくは皿を流しへ運びながら、林へ行くなら水筒が必要だと思い出し、棚の奥から古い水筒を取り出した。

蓋を開けると、昨日入れた麦茶の匂いが残っていたので、みるくは洗ってから新しい麦茶を詰めた。


「よし。行こう」


二人が林へ向かうころには、太陽が少し西へ傾いていた。

道の両側には背の高い草が伸び、足元を小さな虫が飛び跳ねている。

海辺とは違って木陰に入ると空気がひんやりして、湿った土の匂いが鼻をくすぐった。

みるくはワンピースの裾を少し持ち上げ、サンダルに小石が入らないよう慎重に歩いた。

いおりは先を歩きながら、時々立ち止まって木の枝を眺めている。


「こっちから聞こえる!」


「待ってよ、いおり!」


「早く!」


「そんなに走ったら転ぶよ!」


「大丈夫だって!」


その直後、いおりの足元から小さな石が転がった。

いおりは「あっ」と声を上げ、両手を広げて何とか踏みとどまった。

みるくは思わず吹き出し、いおりは少し頬を赤くしながら服についた土を払った。

その拍子に、ヒグラシの声が一段と大きくなった。

カナカナカナという音が木々の間を走り、二人は同時に顔を上げた。


「いた!」


「どこ?」


「右の木!」


二人で見上げても、葉の重なりしか見えない。

蝉の姿は見えないのに、鳴き声だけがすぐ近くから聞こえてくる。

みるくは目を細め、葉の揺れを追った。

風が吹くたびに枝が動き、そのたびに緑色の葉の間から小さな光がこぼれてくる。

いおりは口元に手を当て、声を潜めた。


「静かにして。逃げちゃうよ」


「蝉って逃げるの?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「細かいことはいいの」


二人が黙ると、林の音が急に鮮明になった。

葉と葉が擦れる音、遠くで波が砕ける音、鳥が枝を飛び移る音、そしてヒグラシの声。

みるくは水筒を握ったまま、しばらく動かなかった。

夏休みの海辺で聞く蝉の声とは違い、ヒグラシの鳴き声にはどこか落ち着いた響きがあり、みるくは知らないうちに肩の力を抜いていた。


「みるく、見つけたよ」


「本当?」


いおりが指差した先に、一匹のヒグラシがいた。

茶色い体を枝に隠すようにして、羽を細かく震わせている。

みるくは近づきすぎないよう足を止め、その小さな姿をじっと見た。

何日も前から鳴いていたのか、それとも今日初めてこの林へ来たのか、そんなことを考えていると、ヒグラシが突然飛び立った。

羽音が一瞬だけ耳元をかすめ、二人の間を抜けて高い枝へ消えていく。


「行っちゃった」


「でも、見られたね」


「うん」


「夏が終わる前に、もう一度見に来ようよ」


「そうだね」


帰り道、二人はゆっくり歩いた。

夕方の風は朝より涼しく、みるくのワンピースの裾を軽く揺らしていた。

海へ戻ると、砂浜には夕方の光が伸び、昼間まで白く輝いていた砂が淡い金色に変わっている。

いおりは途中で買った冷たいラムネを飲みながら、瓶の中のビー玉を指で何度も動かしていた。

みるくはそれを見て笑い、自分の水筒に残った麦茶を飲んだ。


「ねえ、いおり」


「なに?」


「ヒグラシが鳴くと、夏が終わるって本当かな」


「まだ海で泳げるんだから、終わらないよ」


「そうだよね」


「明日も海へ行こう」


「もちろん」


その夜、みるくは帰宅すると、脱いだワンピースを洗濯籠へ入れた。

サンダルには林の土が少しついていたので、濡れ布巾で拭き、窓辺には昼間拾った小さな木の実を置いた。

夕食は白いご飯と豆腐の味噌汁、それから昼に食べたアジの残りをほぐして作ったおにぎりだった。

食卓についたみるくは、窓を少しだけ開けたまま箸を動かした。

外からは潮の匂いが入り込み、その向こうから、昼間と同じ声が聞こえてきた。


「カナカナ……カナカナ……」


みるくは箸を置き、窓の外を見た。

昼間よりも空は暗く、海には月の光が細く伸びている。

夏祭りの提灯はまだ通りに残っていて、近所の家からは焼きとうもろこしの甘い匂いが流れてきた。

みるくは味噌汁を一口飲み、少し冷めた豆腐を舌で確かめながら、明日の予定を考えた。

海へ行って、かき氷を食べて、それからまた林へ行ってみてもいい。


「まだまだ、夏は終わらないよね」


誰に言うでもなく、みるくは小さく笑った。

窓の外ではヒグラシが鳴き、昼間よりも涼しくなった風がカーテンを揺らしている。

季節は少しずつ先へ進んでいるけれど、みるくにはまだやりたいことがいくつも残っていた。

明日の朝は何を食べようかと考えながら、みるくは残った味噌汁を温め直すため、静かに立ち上がった。


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