4.彼女が笑顔で過ごせる未来(ユーリー視点)
初めて彼女に会ったのは、あの夜のパーティーだった。
初めて訪れた他国での社交の場だったこともあり、内心では酷く緊張していた。けれど、それを顔に出すことはなかった。
第二王子という立場にいる以上、何をしても人の目が向けられる。少し不機嫌そうな顔をしているだけで何かあったのかと勘繰られ、誰かの言葉に眉を顰めようものなら、それだけで相手を見下していると噂されることさえある。
だから、いつの頃からか笑顔でいることが癖になっていた。
何を考えているのか悟らせない為にも、何か気に入らないことがあったとしても、何か哀しいことがあったとしても、それを表情に出さない為に私はいつも同じような笑みを浮かべている。
その夜も、慣れない場所に一人で立ちながら私はいつものように笑っていた。
「こんばんは。……あの、よろしければ少しお話しませんか?」
そんな私に、彼女は声を掛けてきたのだ。突然のことに私は僅かに目を瞬いた。
「私と、ですか?」
「はい。私も一人で少し寂しかったので、誰かとお話したいなと思って」
そう言って彼女は笑った。
取り繕ったものではない。相手の顔色を窺っているわけでも、何かを隠そうとしているわけでもない。ただ本当に、話し相手ができたことを嬉しそうに笑っている――それが、ひどく眩しく見えた。
「この国には、よく来られるのですか?」
「いいえ、今回が初めてです」
「そうなのですね。では、少し緊張されているでしょう?」
不意にそう言われて、胸の奥が僅かに揺れた。
「……分かりますか?」
「少しだけ」
彼女は楽しそうに笑う。
「でも、私もこういう場所はあまり得意ではないのです。家にいるより外にいる方が好きなのですけれど、こういうパーティーでは知らない人ばかりでしょう?」
「では、何故ここに?」
「誰かと話している時間が好きだからです」
彼女はそう言うと、また笑った。
「誰かと一緒にいると、心から楽しいって笑えるでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、何故だか返事ができなかった。
私にとって笑顔とは、何時からか自分を守るためのものになっていた。周囲に余計な隙を見せず、何を考えているのか悟らせず、第二王子として相応しく振る舞うために必要なものだったのだ。
なのに彼女は、笑うことそのものを楽しんでいる。ただ誰かと話すことが嬉しくて、誰かと過ごすことが楽しくて、心から笑っている。
その笑顔を見ている内に、胸の奥に今まで知らなかった感情が芽生えていくのを感じた。
後になって思えば、あれが初恋だったのだろう。
―――私はあの夜、彼女の笑顔に恋をしたのだ。
けれど彼女には既に婚約者がいた。それも、互いに想い合っているように見えたのだから、自分の入り込む余地などないと思った。叶わぬ恋なのだと理解した私は、胸の内に芽生えた想いを、それ以上育てることなく静かにしまい込むことにした。
それから暫くして留学の準備を進めていた頃、風の噂で彼女が義妹を打ったという話を耳にした。
だが、噂など所詮は噂に過ぎない。何より、あの夜に見た彼女が誰かを理由もなく傷つけるような人にはとても思えなかった。仮に何かあったのだとしても、そこには何らかの事情があるに違いない。
それに、彼女には皇太子という立場を持つ婚約者がいる。あれほど彼女を想っているように見えた婚約者なら、当然彼女を信じている筈であり、いずれ噂も収まるだろう。少なくとも、その時の私は本気でそう考えていた。
入学してから彼女とは別のクラスになり、例の義妹――アナとは同じクラスになったが、一見すれば誰にでも平等に優しく振る舞っているように見える一方で、妙に自分や彼女の婚約者には話し掛けて欲しげに近付いてくることがあった。
噂の件もあって、どうにも好きになれなかった。
そもそも噂では彼女が義妹を虐めているという話になっていたが、私の目にはアナが虐められているようには見えない。それどころか、実際に虐めの現場を目撃したという者さえ一人もいなかった。
念のため、クラスメイトだけでなく他クラスの者にもそれとなく尋ねてみたものの、誰に聞いても返ってくるのは同じ答えだった。噂を聞いたことはあっても、実際に彼女がアナを虐めている姿を見た者はいない。
義妹本人にも軽く尋ねてみたことがある。だが、虐めについて口にした途端、彼女は目に見えて震え出し、それ以上は何も話さなくなってしまった。こちらが何を尋ねても口を噤んだままで、まともな会話にすらならなかったのだ。
ある日には、彼女の傍で噂話をして笑っていた令嬢たちに思わず口を挟んだこともある。
「この国は、嘘か誠かも分からぬことを面白可笑しく話すのですね」
あれが、当時の私にできた精一杯だった。
他国の第二王子である私にできることなど限られている。ましてや彼女には婚約者がいて、私はただの他国の王子に過ぎない。下手に口を出せば、彼女を助けるどころか余計な問題を引き起こすことにもなりかねなかった。
だからこそ、あれ以上踏み込むことができなかったのだ。けれど今振り返れば、あのときの私は「できなかった」のではなく、「踏み込む理由を自分で探して、諦めることを選んでいた」のかもしれない。
そんなことを考えるようになったのは、彼女と二人きりになる機会が訪れた時のことだった。
「何故、噂を放置しているのですか?」
ずっと気になっていたことを、そのまま尋ねた。
いくら義妹が相手とはいえ皇太子を婚約者に持ち、正当な公爵令嬢でもある彼女が堂々と反発すれば、噂など止む筈だと思っていた。それだけ皇太子の婚約者という肩書は大きく、おまけに彼女自身も王族に連なる身分を持っているのだから、何故それを利用しないのかが不思議だったのだ。
「放置……しているように見えますか?」
返ってきた言葉に、妙な引っ掛かりを覚えた。
「はい。少なくとも、私にはそう見えます」
「殿下には、何も分からないのでしょうね」
彼女はそう続けると、僅かに足元へと視線を落とした。
その仕草を見れば、何かあるのだということくらいは分かった。それまで感じていた疑問が別の形へと変わっていくのを感じながら、以前から気になっていたことを今度は躊躇うことなく口にした。
「……婚約者は、何をしているのですか?」
「カルは……」
彼女はそこまで口にすると、突然言葉を止めた。
苦々しげな表情を浮かべたまま、それ以上考えることさえ避けているように見える。婚約者の名前を口にしただけで、こんな顔をするのは何故なのか。
一体どうなっているのだろうか。そう考えた時、不意に別の思いが胸の奥から込み上げてきた。
―――私なら、彼女にこんな顔をさせたりはしないのに。
そんな根拠のない自信が生まれたことに自分自身で驚きながらも、同時にそれならばいっそ頼ってくれればいいのにと思ってしまった。第二王子という肩書がある私なら、少なくとも彼女の力になることくらいはできる筈なのだから。
「誰か、他に頼れる人はいないのですか?」
そこまで言って、一度言葉を切った。
本来なら、こんなことを言うべきではない。彼女には婚約者がいて、私は他国の王子なのだから、私が頼られる理由などどこにもない。それでも、目の前で苦しんでいる彼女をそのままにしておくことだけはどうしてもできなかったのだ。
「例えば……私では、駄目でしょうか」
だから、気付けばそんな言葉が口から零れていた。自分でも驚くほど弱い声だった。
彼女は少しだけ目を見開き、それから静かに首を横に振った。
「殿下にご迷惑を掛けるわけにはいきませんから」
勇気を出して尋ねたものの、返ってきたのはそんな言葉だった。
せめて、冗談の一つでも言ってくれれば良かった。ほんの少し笑って、私の言葉を軽く受け流してくれれば。それだけで良かったのに。
けれど、そんな都合のいい言葉が返ってくることなどなかった。
もし、あのとき彼女が――。
―――『殿下を頼ってみてもいいですか?』
そう言ってくれていたなら、きっと彼女に婚約者がいるという事実も、自分が他国の第二王子であるという立場も忘れて、その手を取ることができたのだろう。
けれど彼女は、それ以上何も言わなかった。まるで自分には頼れる人など誰もいないのだとでも言うように、ただ口を閉ざしていたのだ。
それを見ているうちに、胸の奥に苛立ちが積もっていった。彼女に対してではなく、頼って欲しいと思っている癖に、その程度の存在にすらなれていない自分自身に、どうしようもなく腹が立ったのだ。
「誰にも頼ろうとしない貴女のことが嫌いです」
口から出た言葉は、胸の内にあったものとは掛け離れていた。
本当は、ただ頼ってほしかった。
頼ろうと思えば、他にも頼れる人はいたのかもしれない。それでも誰にも何も言わず、何も求めず、ただ自分一人で抱え込んでしまう彼女を見ていることが、どうしようもなく嫌だった。
あの夜に見た笑顔の方が、彼女にはずっとよく似合うのに。
「家にも学園にも居場所などないのに、一体私は何をすればいいのですか?」
真っ直ぐに睨み付けられた。
その眼差しに怯むより先に、彼女がこんな顔をすることができるのだと驚いていた。
周囲の者にも、その毅然とした態度で立ち向かえばいい。そうすればきっと噂など止んでいた筈だと、そんなことまで考えてしまった。
けれど、その言葉が彼女にとってどれほど残酷なものだったのかを当時の私は理解していなかった。
「そんな態度も取れるのですね。意外です」
半ば本当に意外だったからだ。ずっと暗い顔をしていた彼女が、記憶の中では優しい笑顔を浮かべていた彼女が、こんなにも強い眼差しを見せることができる。そのことに驚いて、思ったままを口にしてしまったのだ。
けれど、そんな私の意図が彼女に伝わる筈もなかった。
「……もういいです」
彼女は目を伏せると、それだけを残してその場を去ってしまったのだ。
それ以降、二人きりで話す機会はなかった。彼女が私を避けていたのか、それとも単に偶然が重なっただけなのか、それすら分からないまま時間だけが過ぎていった。
それでも、いずれ彼女は今の婚約者と結婚することになるのだろう。王妃となれば彼女を悪く言う者も自然と減っていく筈で、婚約者が一体何をしているのかは最後まで分からなかったが、それでも彼女には彼女を守る立場の人がいるのだ。少なくとも今より状況が悪くなることはないだろうと、そう考えていた。
そう思っていた矢先、よりによって私が帰国している最中に事件は起こった。彼女が婚約破棄されたという知らせが届いたのだ。おまけに、生涯幽閉という罰まで受けたという。
信じられなかった。あの婚約者は、彼女を信じ切れずに捨てたのだ。
彼女がどれほどその人を信じていたのかは知らない。ただ、最後まで婚約者の名を口にしていた彼女を思えば、少なくとも彼女の方は――。
それなのに最後に彼女を裏切ったのは、その婚約者自身だった。
もし、あの場に私が居合わせていたなら――そう考えずにはいられなかった。少なくとも、何もせずに彼女を一人にすることだけはしない。
もし私がそこにいたなら、その場で元婚約者を叱責し、虐めの証拠に疑念を呈していた。彼女が何を言おうと、何も言えずに俯いていようと、その場で彼女の側に立ち、婚約を申し込んででも国から連れ出していたのに。
だが、既に遅かった。
元婚約者に話をつけようにも、その者は原因不明の体調不良を理由に面会すらできない状態だという。
いっそ公爵家へと乗り込み、苦言を呈するべきなのではないかとも考えた。だが私は他国の第二王子であり、そんな真似をすれば個人間の問題では済まず、国際問題にまで発展する可能性があるのだ。
それでも何もしないという選択だけはできず、父である王の反対を押し切り、彼女への婚約を何度も打診し続けた。
けれど、どれだけ送っても――返事はなかった。
次に彼女と会うことができた時、彼女はもう、二度と表情を変えることも、声を発することもない存在になっていた。
彼女が義妹を虐めていなかったことも、彼女が無実だったことも、そして彼女自身が家の中で虐げられていたことも、全てが明るみになったのは彼女がそれを知ることさえできなくなった後だったのだ。
今さら真実が明らかになったところで何の意味もない。どれだけ彼女の無実を証明しても失われた時間が戻ることはなく、あの頃の彼女がもう一度笑ってくれることもないのだから。
彼女は、もう戻ってこない。だから私は――『魔女の秘薬』を飲むことにした。
古くから人の世に姿を現すことなく生き続けているとされる魔女の一族。その一族の一人が命を捧げて生み出したと伝えられる秘薬であり、飲んだ者の一番大切なものを代償に、一つだけ願いを叶えることができるとされている、王家に伝わる秘宝の一つだった。
私が望むものは、一つしかない。
―――『彼女が笑顔で過ごせる未来』
それだけでよかった。
所詮、第二王子に過ぎない私がいなくなったところで、国はどうとでもなる。王家の秘宝を勝手に持ち出したことを責められようとも、全ては後の祭りなのだ。
彼女を失った今、何を失おうとも私には関係ない。あの結末を変えられるのなら、何を差し出しても構わない――少なくとも、あのときの私は本気でそう思っていた。
そして次に目を覚ましたとき、私は一度目の人生で留学が決まった直後まで戻っていたのだ。
最初は何が起きたのか理解できなかった。
けれど見慣れた景色と、以前にも見たことのある出来事を目にする内に、少しずつ状況が繋がっていった。
―――あの悲劇よりも前に戻ったのだ。
奇跡が起こった。一度目の人生を、やり直す機会を与えられたのだ。
そう理解した直後、胸の奥に妙な違和感があることに気付いた。
彼女のことは覚えている。初めて会った日にちも、彼女を想う気持ちも、救えなかった後悔も、あの結末を知ったときに感じた痛みも消えてはいない。
なのに、何かが足りない。彼女のことを思い浮かべても、どうしても思い出せないものがあるのだ。ふと「あの夜、彼女と何を話したのだったか」と考えた瞬間、何も思い出せなかったのである。
確かにあの夜に彼女と話した。そこで彼女の笑顔を見て、心を奪われた。その事実だけは間違いなく残っている。けれど、その笑顔を見たときに何を言われたのか、何故彼女が笑っていたのか、何を話してどんな時間を過ごしたのか。
そこだけが綺麗に抜け落ちていた。思い出そうとするほど、そこには何もないのである。
そこでようやく、秘薬の代償を理解した。
私にとって一番大切だったもの――それは、彼女と共に過ごした時間の中にあった幸福な瞬間だったのだ。
彼女の幸せな未来を願った。けれど、その願いを叶えるために私が差し出したのは皮肉にも彼女と過ごした幸福な時間そのものだった。
あの夜に見た笑顔も、何気なく交わした言葉も、彼女と共に過ごした穏やかな時間も、もう二度と思い出すことができない。
―――なんと中途半端で、残酷な代償なのだろう。
覚えていないのに恋しく、思い出せないのに大切だったと分かる。
そこに確かに存在していた筈の幸福だけが抜け落ちている所為で、何を失ったのかさえ自分の記憶から確かめることができない。それでも胸の奥に残った空白だけが、その時間がどれほど大切だったのかを教えていた。
そんな矛盾を抱えたまま、私は暫くその場から動くことができなかった。
けれど、いつまでも失ったものを嘆いているわけにはいかない。
失ったのなら――また作ればいいのだ。初めて会った日のことも、交わす言葉も、共に笑う時間も、今度は一つずつ、この手で積み重ねていけばいい。記憶として残っていないのなら、これから新しく作ればいいのだ。
そう考えると、先ほどまで胸を締め付けていた痛みがほんの少しだけ和らいだ。
何も起こらなければ、それが一番いい。
一度目と同じことなど、起こらないに越したことはない。彼女があのときのような暗い顔を浮かべることも、誰にも頼れず一人で抱え込んでしまうこともなくただ穏やかに笑って過ごせるのなら、それ以上に望むことなどなかった。
そして――できることなら、もう一度彼女の笑顔を見たかった。そう思った瞬間、今の自分にはその笑顔を思い浮かべることさえできないのだと改めて思い知らされた。
けれど、それでも構わない。きっとまた見ることができるから。
今度見るときは、その笑顔をこの目に焼き付ければいい。失った記憶を取り戻すことができなくても、これから先に作る時間まで失ったわけではないのだから。
今世でも彼女と皇太子は婚約していることだろう。
そう思っていたものの、調べてみれば皇太子にはまだ婚約者がいないという。ならば彼女はどうなのかと思えば、彼女にも婚約者はいなかった。
それを知ったとき、胸の奥が僅かに熱を持った。
何かが起これば、今度こそ迷わず手を差し伸べるつもりだった。
彼女に婚約者がいるかどうかとは関係のないことだ。一度目の人生で誰かに任せてしまったからこそ、二度目は自分で彼女の側に立つと決めたのだから。
けれど――婚約者がいないのなら。何も起こらなかったとしても、私は彼女の傍にいてもいいのではないだろうか。
一度目の人生では彼女には婚約者がいた。だからこそ彼女を守ることを、その婚約者に任せようとしていたのだと思う。彼女を想っているように見えたあの人なら、噂が広がったとしても彼女を信じ、きっと守ってくれる。そう思っていたからこそ自分が踏み込む必要はないのだと、どこかで自分に言い聞かせていたのだ。
けれど、実際には違った。
噂が広がっても何もせず、彼女が一人で苦しんでいることにも気付かず、最後には彼女を信じることすらしなかった。
あのとき、もっと早く踏み込んでいれば。もっと早く彼女の側に立っていれば。その後悔を一度目の人生で何度繰り返したか分からない。
だから二度目の人生では、婚約者が誰であろうと、何かが起これば迷わず彼女に手を差し伸べるつもりだった。誰かが彼女を守ってくれるなどと期待して、再び何もせずに待っているつもりはない。
それだけは、彼女に婚約者がいるかどうかに関係なく変わらなかった。
けれど彼女に婚約者がいないと知ったことで、もう一つだけ胸の奥にしまっていた願いがほんの少しだけ顔を覗かせた。
何かが起こったときに彼女を救うためだけではなく、何も起こらない穏やかな日々の中でも、彼女の傍にいたい。そんな願いを抱くことくらいは、許されるのではないだろうか。
今度は、その笑顔が見られる場所にいたい。できることなら――その隣にいたい。
誰かから彼女を奪いたいという願いではない。
一度目の人生で何もできなかった自分が、二度目の人生でもただ彼女を遠くから見守るだけで終わるのではなく、彼女と同じ時間を生きて、その中で少しずつ新しい思い出を作っていきたいという、ただそれだけの願いだった。
そうして私は、再び学園へと向かう。
失ってしまったものを嘆くためではなく、今度こそ彼女が笑っていられる時間を、この手で一つずつ積み重ねていくために。
カルロかユーリー、何方の方が好きでしょう?




