3.初めて見る顔
ローズが手洗いへ向かって教室を離れてから、そう時間は経っていなかった。リリアが一人で席に座っていると不意に目の前に人影が立つ。
「リリア様、少しよろしいですか?」
てっきりユーリーだと思っていたのだが、声を聞く限りどうやらそうではないらしい。リリアが顔を上げるとアナが彼女を見ていた。
何の用なのだろうと訝しみながら口を開く。
「……どうしました?」
「以前お会いしましたよね。あの時は、きちんとお礼もお詫びもできなくて……」
「気にしないでください。貴女が謝ることではありませんから」
「……ありがとうございます」
アナは少しだけ表情を和らげた。
「こうして同じクラスになったのも、何だか不思議ですね」
「そうですね」
「もしよければ……これから、少しずつお話ししてもいいですか?」
一度目では、アナに対して良い感情を抱いたことはなかった。
だが、それはあくまで一度目のことだ。今のアナはまだ何もしておらず、過去の記憶だけを理由に今目の前にいる彼女まで拒むのは違う。
「ええ。私でよければ」
「本当ですか?」
そう自分に言い聞かせるように答えると、アナの顔がぱっと明るくなった。嬉しそうに笑ったアナがふと首を傾げる。
「では……お姉様、とお呼びしても?」
一体何を言い出すのだろう。そんな考えに至る前に、言葉を聞いた瞬間リリアの頭の奥に一度目の人生の記憶が蘇った。
―――お姉様。
かつて何度も耳にした呼び方と同じ声。だからか嫌悪感が一気に押し寄せてきて、考えるより先に言葉が口から飛び出していた。
「良いわけがないでしょう!」
教室中へと響くほどの声だった。言ってしまってから、自分でも驚くほど強く拒絶していたことに気付いたものの既に遅く、周囲にいた生徒たちが何事かと一斉に視線をこちらへと向けていた。
「……私は、ただリリア様と仲良くなりたかっただけなのに……」
アナは目を見開いたまま固まっていたが、やがて見る見るうちに表情を曇らせ、小さく呟く。今にも泣き出しそうだった。
「……っ」
その姿を見た瞬間、再び一度目の記憶が脳裏を過った。あの頃も何時の間にか自分が悪いことになっていて、何を言っても聞いてもらえず、周囲から向けられる視線だけが少しずつ冷たくなっていったのだ。
今世では、アナとは義姉妹ですらなく殆ど面識もない筈なのに、どうしてまた同じことになるのだろう。
(……また、なの?)
胸の奥が冷たくなる。けれどそんなリリアの困惑を他所に、周囲では小さな囁きが生まれ始めていた。
「何かあったのかしら……」
「可哀想……」
「リリア様があんなに怒るなんて……」
こちらへと向けられる視線が増えていく。
「――感心しませんね」
その時、よく通る声が教室へと響いた。それまで聞こえていた囁きがまるで一斉に途切れたかのように消える。
声の主はユーリーだった。
「随分と楽しそうに話されていましたが……」
誰も答えない。他国からの留学生であり、第二王子である彼に対して面と向かって反論できる者などそうはいないのだろう。
ユーリーはそんな教室の様子を一度見渡してから、何事もなかったかのようにアナへと視線を戻した。
「それにしても、この国では目上の方――それも、殆ど初対面の方に『お姉様』と呼び掛けることが許されているのですね」
「……どういうことですか?」
誰かが恐る恐る尋ねる。
「まさか、何を話していたのかも知らずに陰口を叩いていたのですか?」
返事はなく、ユーリーは僅かに首を傾けると笑顔のまま続けた。
「その方は先ほど、彼女に対して『お姉様と呼んでもいいですか?』などと仰っていたのですよ。家族でもなく、殆ど面識もない筈の彼女に対して、ね」
その言葉に、教室の何人かがアナへと視線を向ける。先ほどまでリリアに向けられていた視線が今度は別のところへと向かって集まっていき、アナの表情が僅かに強張った。
ユーリーはそれ以上何かを言うことなく、ただ静かにその様子を見つめていたのだが、不意に教室の扉が開いた。
戻ってきたローズが教室の異様な静けさへと目を瞬かせる。視線を巡らせ、笑顔のまま周囲を見渡しているユーリーと、その前で明らかにたじろいでいるアナ、そして妙に静まり返ったクラスメイトたちを目に入れると不意に口を開いた。
「……これは一体、何事ですの?」
ユーリーが振り返り、ローズを視界に入れる。
「ああ。丁度戻ってこられましたか。少し前に、あちらの方が彼女に話し掛けていまして」
アナを一瞥すると、そこから先をユーリーは淡々と説明しだした。
アナがリリアへと近付き、「お姉様と呼んでもいいですか」と尋ねたことから始まり、「ただ仲良くなりたかっただけ」と涙目で訴えるところまで。
それから、周囲が事情を確かめることなく囁き始めたことも含めて伝えると、最後まで黙って聞いていたローズは話を聞き終えるなりアナへと視線を向けた。
「……そういうことでしたの」
一拍置いて、冷ややかに言い放つ。
「被害者ぶって、随分と図々しいですわね」
アナの肩が僅かに揺れた。ローズはそのまま一歩近付き、真正面からアナを見つめる。
「そもそも、貴女はリリアさんの何ですの?」
アナは答えなかった。答えられなかったのか、それとも何かを言えば余計に不利になると判断したのかリリアには分からない。
「……失礼します」
ただ、暫くの沈黙の後アナは俯いたまま踵を返し、それだけを残して教室を走り去っていった。
扉が閉まる音が響くと、張り詰めていた空気が漸く緩む。
「……何だったんだろう」
「さあ……」
「急に走っていったけど……」
小さな声で、少しずつ教室にざわめきが戻っていった。
ただし先ほどまでとは違い、誰も明確に『この人が悪い』とは言わない。それどころか、先ほど陰口を叩いていた者たちすら妙に口数が少なく、互いに顔を見合わせながら何とも言えない表情を浮かべているのだ。
恐らく、もう一度ユーリーに何かを言われることを恐れているのだろう。ローズはそんな教室の様子を一度眺めたあと、リリアの隣へと戻ってきた。
「まさか私が少し席を外している間に、こんなことになっているとは思いませんでしたわ」
「……私も、こんなことになるとは思いませんでした」
「もし殿下がいらっしゃらなかったら、貴女は必要以上に傷ついていたかもしれませんわね」
そう言ってから、ローズは僅かに表情を曇らせた。
「その場にいられなくて、ごめんなさい」
「謝らないでください」
リリアは静かに首を横へと振った。
「ローズさんが仰っていたではありませんか。何でも直ぐに謝ればいいというものではない、と」
「……そう、でしたわね」
ローズの表情がふっと和らぐ。
「撤回いたしますわ」
その言葉に、リリアも小さく笑った。そこでふと、先ほどから少し離れたところに立っているユーリーへと視線を向ける。
「殿下も……ありがとうございました」
「いえ」
ユーリーはいつもの笑みを浮かべたまま答えた。
「ただ、あまりに何も言い返さないので苛立ちました」
「殿下、それではまるで――」
ローズが直ぐさま口を挟もうとするものの、最後まで言うより前にユーリーが何かに気付いたように呟いた。
「……いや」
一度言葉を切り、ユーリーは改めてリリアを見る。
「そういう言い方では駄目でしたね」
その声には、先ほどまでの素っ気なさが少しだけ薄れていた。
「貴女は何一つ悪くないのに周りが勝手に決めつけて、恰も貴女が悪いかのように言われていることに苛立ったのです」
リリアは黙ってユーリーを見つめた。彼はきっと、最初に言った言葉だけではリリアに上手く伝わらないと気付いたのだろう。
だから、どう言えば自分の意図が伝わるのかを考えて、わざわざ言い直してくれたのだ。
「……ありがとうございます」
そのことが何故だか少しだけ嬉しくて、気付けばリリアは自然と笑っていた。
ユーリーが一瞬だけ目を見開く。それから浮かべた笑みはいつも彼が貼り付けているものとは違っていて何かを取り繕うようなものではなく、どこか無防備で無邪気さの残る、年相応の青年を思わせる笑みだった。
リリアは思わず目を瞬かせた。
(……こんなふうに笑うのね)
その笑顔を見つめていると、胸の奥に懐かしさにも似た感情が広がる。遠い記憶の片隅に残る何かと重なるような、不思議な感覚だった。
そして――ユーリーの耳元がほんの僅かに赤くなっていることに、リリアは終ぞ気付くことはなかった。
次回はユーリー視点です(恐らく気になっているであろう)。




