国賊の騎士 ~祖国に見捨てられた騎士は、敵国の王子に溺愛される~
「王国騎士団よ!王国騎士団御一行が帰還なさったわ!」
通りに響き渡った女性の声を合図に人々が一斉に城門へと目を向けると、大きく開かれた門の向こうから銀の鎧に身を包んだ騎士たちが現れた。彼らの掲げる旗にはセルフィア王国を象徴する白鷹が描かれている。
長期にわたる遠征から戻ったばかりだというのに隊列には乱れ一つなく、鎧や外套には旅の汚れが残っていたものの、誰一人として疲労を表に出さず、沿道から浴びせられる歓声に堂々と応えていた。
彼らは王国騎士団。国内に存在する数多の騎士団の中でも、唯一国王の直属とされる精鋭たちだった。
その先頭に近い場所で、一人の若い騎士が馬を進めている。陽光を受けて輝く金の髪は短く整えられ、端正な顔立ちには凜とした佇まいがある。周囲から名を呼ばれても表情一つ変えず、瑠璃色の瞳は真っ直ぐ前だけを見据えていた。
「リゼルヴェル様だ!」
「王国騎士団の副隊長だぞ!」
歓声が一際大きくなる。
リゼルヴェル・アースベルクは、その声を誇らしく聞いていた。
『リゼルよ。我が家、そして我が国のために、その身を捧げなさい』
『はい、父上』
―――幼い頃から何度も繰り返してきたやり取りだった。
父に期待されている。アースベルク家の長子として、国の役に立つことを望まれている。
苦痛ではなく、むしろ誇りであった。この国を守ることこそが自分に与えられた使命なのだと。そう信じていたからこそ、どれほど厳しい鍛錬にも耐えることができたのだ。
リゼルヴェルは、ガゼル・アースベルク伯爵と、その妻テルシアの間に生まれた最初の子だった。だが、第一子として生まれたリゼルヴェルが女であったことをガゼル伯爵は受け入れられなかった。
男児が家督を継ぐことが暗黙の前提であるものの、代々アースベルク家には女子が生まれにくい。だからか、何時しか第一子を性別にかかわらず後継者として育てるという慣習が生まれていたのだ。
瑠璃色の瞳と、透き通るような金の髪。両親の特徴を色濃く受け継いだ娘を前にして真っ先に伯爵が考えたのは、どうすれば女児が生まれたという事実を隠せるかだった。
そうして、リゼルヴェルを取り上げた産婆をはじめ、彼女の本当の性別を知る者は屋敷から一人残らず姿を消し、ある者は多額の金を渡されて遠方へと追いやられ、ある者は二度と口を開けぬよう処罰された。リゼルヴェルが女児だという事実は実質的に闇へと葬られたのだ。
アースベルク家の第一子は男児として世に知られることとなった。それだけでなく、ガゼル伯爵はリゼルヴェルを息子として育て、次期当主に必要な知識と礼儀を徹底的に叩き込んだのだ。剣術、政治、領地経営、軍学を。令嬢として扱われることはなく、淑女としての教育は受けることがなかった。
一方、母であるテルシアは、リゼルヴェルに女であることを隠す術を教えた。身体の変化を悟らせない方法、着替えや入浴の際に人を遠ざける理由、令嬢たちと接するときに不自然に見えない振る舞いを。
『女であることを知られてはいけません』
テルシアは口癖のように、リゼルヴェルにそう言っていた。
転機が訪れたのは第二子が生まれた時だった。待望の男児を得た両親は、その子をリアムと名づけ、惜しみない愛情を注いだのだ。
この時から、リゼルヴェルの両親は彼女をどうするか考えるようになった。第一子であるリゼルヴェルは既に周囲から次期当主と認識されていて、そんな彼女を捨て置いてリア厶を後継者にするには都合が悪かったのだ。だからといって、実際には女であるリゼルヴェルを次期伯爵にする訳にもいかない。
悩み抜いた末に、ガゼル伯爵は一つのことを思い付いた。娘を騎士――それも、国内で最も危険な任務を担う王国騎士団として送り出し、国のために名誉ある戦死を遂げさせることを。
そうすればアースベルク家の体面を傷付けることなくリアムに家督を継がせられるだけでなく、都合良く彼女を処分できる。ガゼルはそう考えたのだ。
しかし、リゼルヴェルには剣の才があった。純粋な力ではなく技量と判断力で敵を圧倒し、やがて彼女は若くして副隊長にまで上り詰めたのだ。
予想外のことであったが、結果だけを見ればガゼル伯爵の狙い通りになったと言える。というのも、国がリゼルヴェルに副隊長という重大な役目を与え、騎士団に縛りつけたからだ。
親に期待され、国に頼られている。リゼルヴェル自身、王国騎士団にいること自体が誇りだった。だから、上手いように使われていることにも気が付かなかったのだ。
しかし、突如として彼女の快進撃は幕を下ろした。
◆
「剣を下ろすな!最後まで国のために足掻くのだ!」
リゼルヴェルが血に濡れた剣を掲げて声を張り上げる。
周囲には倒れた騎士たちが折り重なり、赤く染まった大地からは鉄の臭いが立ち込めていた。彼女自身も既に満身創痍で、左肩には深い傷を負い、鎧の隙間から流れた血が滴り落ちる。残された部下たちも既に意識を失いかけていた。
元々、この戦いは確実な勝利を約束されていた。相手の動向をいち早く聞き付け、入念に準備をした上で背後から奇襲したのだ。
作戦は完璧である筈だった。だが、罠に嵌められていたのはこちらの方で、敵の背後を取ったつもりが四方から伏兵が現れ、退路まで塞がれて瞬く間に包囲された。
敵国に潜ませていた内通者が裏切ったのだ。こちらの進軍経路も兵数も、すべて敵側へと伝わっていたのだろう。
それでも、剣を下ろすわけにはいかなかった。
この期に及んで犯人探しをする意味はない。だが生きて帰れる可能性がないのなら、せめて一人でも多くの敵を道連れにする。それが国に仕える騎士として残された最後の務めだったから。
「副隊長……」
ふと背後から弱々しい声が聞こえ、振り返ったリゼルヴェルの目に膝をついた部下の姿が映るも、その胸元には槍が深々と突き刺さっていた。
「申し訳……ありません」
「謝るな。お前はよく戦った」
リゼルヴェルが答えた直後、男はゆっくりと地面へと崩れ落ちた。
嘆く暇さえなかった。
足掻いても足掻いても敵は途切れず、やがて騎士団の仲間たちは一人もいなくなっていて、立っているセルフィアの騎士はリゼルヴェルだけになっていた。痛みも疲労もとうに限界を超えていたのに、ただ身体に染みついた動きだけが彼女を立たせ続けていたのだ。
ひたすら剣を振るい続け、どれだけ時間が経ったのか、遂には周囲から人の気配が消えていた。最後の敵兵を斬り伏せたところで、リゼルヴェルは漸く剣を地面へと突き立てる。
辺りを見回せば、敵国の騎士たちも殆ど倒れていた。
「……ここまで、か――」
誰に聞かせるでもなく呟く。
これほどの損害を与えれば、敵軍も直ぐには進軍できないだろう。仲間の命も、自分の命も、決して無駄ではなかったのだ。
そう思った瞬間に膝から力が抜け、リゼルヴェルは剣の柄を掴んだまま地面へと崩れ落ちた。
「――うちの騎士をやってくれたのはこいつか」
遠のく意識の中で、男の声が聞こえた。けれども既に指一本動かすことすらできず、リゼルヴェルは自らの死を悟りながら、それでも口元に僅かな笑みを浮かべたのだ。
相手に一泡吹かせたと言わんばかりの満足げな表情で、彼女は静かに意識を手放した。
◆
「……痛っ」
リゼルヴェルが次に目を覚ますと、ひやりとした石の冷たさが頬に触れた。身じろぎしただけで全身に鈍い痛みが走り、思わず顔を顰めるとゆっくりと身体を起こす。
見覚えのない石造りの部屋だった。窓はなく、壁際には粗末な寝台が一つ置かれていて、目の前には太い鉄格子がある。その向こう側にも同じような牢が続いていた。
「……牢獄か」
何処にいるのかなど考えるまでもない。意識を失う前の出来事を思い出しながら、リゼルヴェルは自分の身体にゆっくりと触れた。
鎧は剥ぎ取られていて、掛けられているのはなけなしの布一枚だった。血塗れだった腕には簡素ながら手当てが施されていて、胸元に巻いていた晒も乱雑に巻き直されている。
身体を検める際に外されたのだろう。つまり、女であることも知られてしまったようだった。
「――起きたか」
突然、背後から声がして、リゼルヴェルは反射的に振り返った。
―――鉄格子の向こう側に一人の男が立っている。
戦場で最後に聞いた声だった。
黒髪に、深い青色の瞳。整った顔立ちをしていて、その眼差しには隙がない。簡素な軍装を身につけているものの、纏う雰囲気は一介の騎士とは明らかに違っていた。
警戒を露わにして、リゼルヴェルは男を睨みつけた。
「貴様、何を企んでいる」
「……企む?」
「私を生かした理由だ。尋問するつもりならさっさと始めろ」
男は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「随分と気が早いな。まだ目を覚ましたばかりだろう」
「敵の情けなど受けるつもりはない」
「情けを掛けたつもりはない。治療しなければ死ぬ状態だったから手当てをしただけだ」
「同じことだ」
「……そうか」
戦場で自身を回収したのもこの男だろうと、リゼルヴェルが訝しげに目を細める。あの時は意識が朦朧としていたものの、最後に聞いた声は間違いなく今の男の声だったのだ。
「……一つ、聞きたい」
「何だ?」
「私を此処まで運んだのは、貴様か?」
「ああ」
「そうか」
やはりそうだった。短く答えると、リゼルヴェルは視線を落とした。そうしていると、男が少しばかり言いにくそうに口を開く。
「その……女、だったのだな」
リゼルヴェルの眉がぴくりと動いた。
「……それが何だ」
「いや。知らぬとはいえ、申し訳ないことをした」
「何の話だ」
「身体を検めたことだ。確認するためとはいえ、男だと思っていたからな。結果として、貴女には不快な思いをさせた」
「もう済んだことだ。気にしていない」
「……そうか」
「ああ。悔しいが、私は敗けた。今さら反抗しようとも思わんよ」
戦場で決着はついたのだ。騎士として敗北を認めることくらいはできる。どのみち武器もなく、身体も満足に動かせない今、ここで抵抗したところで無意味なのだ。
そうしていると男がふと何かを思いついたようにリゼルヴェルを見つめ、やがて静かに口を開いた。
「名を申せ」
「は?突然何を言う」
あまりにも唐突な言葉に、リゼルヴェルは思わず眉を寄せた。
「私に名乗る義理などない。……そもそも、名を知って何になる」
「名前くらい聞いておいた方がいいと思っただけだ」
「……それだけか?」
思わず聞き返してしまった。
もっと別の理由があるのではないかと思っていたのだ。情報を引き出すためか、何かしらの意図があるのか。だが目の前の男の表情からはそういったものが微塵も感じられなかったのである。
「ああ」
男が短く答え、リゼルヴェルはその顔をじっと見つめた。
敵国の人間である以上、警戒を解くつもりはない。むしろ、これほど簡単に本心を晒すような相手の方が信用できない。それでも、名前を尋ねるだけの理由が「聞いておいた方がいいと思ったから」というのは、どうにも理解し難かったのだ。
「……随分と妙な男だな」
呆れ半分に呟くと、男は一瞬だけ目を瞬かせて、それから苦笑した。
「よく言われる」
「褒めているわけではない」
「それもよく言われる」
あまりにも平然と返され、今度こそリゼルヴェルは言葉を失った。先ほどまで張り詰めていた牢獄の空気が、ほんの僅かに緩んだ気がする。
敵を前にしているというのに、こんなやり取りをしている自分が妙に可笑しく思えて、リゼルヴェルは小さく息を吐いた。
「……リゼルヴェルだ。これ以上、貴様に話すことはない」
だが、相手は敵なのだ。直ぐに表情を引き締めて言葉を吐き捨てると、リゼルヴェルは再び男から顔を背けた。
男は暫く彼女を見つめていたものの、やがて静かに口を開いた。
「私はアルベルト。ヴァルキア王国の第一王子だ」
「……第一王子?」
思わずリゼルヴェルが振り返る。
目の前にいる男が、まさか王族だとは思っていなかった。敵軍の指揮官か何かだろうとは考えていたものの、まさかその国の王子本人とは予想していなかったのだ。
「覚えておけ。貴様を捕らえた男の名だ」
「……妙なことを言う男だな」
「そうか?」
アルベルトは僅かに口元を緩めると、それ以上は何も言わずに牢の前から離れていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、残されたリゼルヴェルは小さく息を吐く。信用してはいけないと自身に言い聞かせながらも、何故かその名前が妙に耳に残っていた。
◆
「シリウス。いるか?」
「はっ、こちらに」
執務室の扉が開き、灰色の髪をした若い男が一礼した。アルベルトは机の上に置かれた報告書から顔を上げると、指先で額を押さえる。
「頼みたいことがある。昨日捕らえた騎士について調べてくれ」
「昨日の……あの金髪の騎士ですか?」
「ああ。名はリゼルヴェル。王国騎士団の副隊長だった」
「副隊長……。それで、何を調べれば?」
「家柄とこれまでの経歴。それから、騎士団に入った経緯もだ」
「承知しました」
「できるだけ詳しく頼む」
「畏まりました」
シリウスは頷いたものの、直ぐに退出しなかった。
「……何だ?」
「いえ。ただ、殿下が敵国の捕虜をそこまで気にかけるのは珍しいと思いまして」
アルベルトは露骨に顔をしかめる。
「余計なことを言うな」
シリウスが一礼して踵を返すと、その背中を見送ったアルベルトが静かに息を吐いた。
殆ど一人で敵を食い止めていた、あの剣技。昨日、戦場で見たあの騎士の姿が頭から離れないのだ。
それほどの腕を持つ者が、なぜ女であることを隠し、男として騎士になったのか。その理由が、アルベルトには気になって仕方がなかったのだ。
◆
リゼルヴェルが牢へと入れられてから丸一日が経過しようとしていた。
アルベルトが様子を見に行くと、前日に運ばせた食事がそのまま残されている。湯気を立てていた筈のスープは冷え切り、パンはすっかり硬くなっていた。
「なぜ食べない」
鉄格子越しに声をかけても、リゼルヴェルは壁へと背を預けたまま顔を上げなかった。
「死んでしまうぞ」
「……どの口が言う」
「何?」
「どうせ最後には殺すつもりなのだろう。ならば今死のうが後で死のうが同じことだ」
「殺さないと言ったら?」
その言葉に、リゼルヴェルが初めて顔を上げた。
「敵国の騎士を生かしたまま帰すとでも言うのか」
「帰すとは言っていない」
「ならば、情報を引き出すまで生かしておくということか」
「お前は他人の言葉を悪い方に受け取る癖があるな」
「敵の言葉を信じる騎士が何処にいる」
アルベルトは返答に詰まり、鉄格子の前で腕を組んだ。
「食事に毒は入っていない。必要なら先に口をつけてもいいぞ」
「そこまでして私を生かす理由は何だ」
「死なせる理由がないからだ」
あまりにも簡単に告げられて、思わずリゼルヴェルは言葉を失った。
「お前は既に敗北し、今のところ脅威ではない。それならば、傷ついた人間を治療するのは当然だろう」
「敵であってもか」
「敵である前に、人間だ」
リゼルヴェルは僅かに眉を寄せ、直ぐ視線を落とした。敵国の王子にしては随分と変わったことを言う男だと思ったのだ。
それ以上のことを考えるつもりはなかったのに、暫くしても先ほどの言葉だけが頭の片隅に残っている。
「……変な男だ」
小さく呟くと、リゼルヴェルは再び視線を落とした。
「……口先なら、何とでも言える」
「そうだな。だから今すぐ信じろとは言わない」
アルベルトは牢の外に置かれた椅子へと腰を下ろした。
「ただし、食事だけは取れ。お前が飢えて死ねば、私が後味の悪い思いをする」
「敵に気を遣うとは、随分と甘い王子だな」
「そうか?」
「……ああ」
すると、アルベルトは冷めた食事を新しいものへと替えるよう看守に命じ、椅子から立ち上がった。
「明日も食べていなければ、今度は私が直接口へと押し込む」
「やれるものならやってみろ」
「その意気があるなら大丈夫そうだな」
僅かに笑って立ち去る背中をリゼルヴェルは無言で見送る。その夜運ばれてきた新しい食事に、彼女はほんの少しだけ口をつけたのだった。
◆
「というか、彼――いや、彼女は女性だったのですね。先に教えてくださいよ」
報告書を捲っていたシリウスが、呆れたように顔を上げる。
「教える必要はない」
「身辺を調べさせておいて重要な情報を伏せるのはどうかと思います」
「調査に支障はなかっただろう」
「そういう問題ではありません」
小言を聞き流しながら、アルベルトは再び報告書へと視線を落とした。シリウス程の腕をもってしても、アースベルク家が隠している部分には手が届かなかったらしい。
記されていたのは、リゼルヴェルがアースベルク伯爵家の長子として生まれ、その後王国騎士団に所属したという簡素な経歴ばかりだった。出生から騎士団へ入るまでの記録には不自然なほど空白が多く、家族構成についても弟のリアムまでは確認できるものの、リゼルヴェルがどのような環境で育ったのかまでは分からなかった。
それでも、騎士団へと入った後の記録には目を見張るものがあった。入団してから僅かな年月で頭角を現して副隊長にまで昇り、その実力については折り紙付き。複数の記録が一致していて、今回の戦場で見せた剣技も決して偶然ではなかったようだった。
アルベルトは報告書を捲りながら暫く黙り込んだ。何故男として生き、何故騎士になったのか――記された文字だけでは答えまで見えてこなかった。
「……随分と隠されているな」
「ええ。アースベルク家が意図的に消したのでしょう」
シリウスは肩を竦める。
「ただ、ひとつ気になることがあります」
「……何だ?言ってみろ」
「彼女が騎士団に入った時期って、弟君が生まれた直ぐ後なんですよ」
アルベルトの手が止まった。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、アルベルトはもう一度報告書へと目を落とした。断片的な情報しかないものの、それでも何かが引っかかったのだ。
戦場で見たあの姿と、紙の上に残された僅かな経歴。その間にはまだ知らない事情が隠されているように思えた。
「……どうしてくれようか」
「何をです?」
「彼女をだ」
シリウスが黙り込んだままアルベルトを見つめる。そうしていると、暫くしてアルベルトは報告書を閉じた。
「私の側に置く」
「………はい?」
思いがけない答えにシリウスが目を丸くする。アルベルトはそんな彼を気にすることもなく、閉じた報告書に手を置いたのだった。
◆
「リゼルヴェルよ。私の侍女になれ」
牢から出されたリゼルヴェルは、王城の一室でアルベルトと向き合っていた。
傷はまだ完全には塞がっていないものの、立って歩ける程度には回復している。用意された簡素な衣服を身につけた彼女は、目の前の王子を険しい顔で睨み付けた。
「私に国を裏切れと言うのか。そんなことできる筈がないだろう」
祖国を裏切る。それだけはどれほど追い詰められようとできない。たとえ自分が捕虜となり、これからどのような扱いを受けることになろうとも、セルフィアの騎士として生きてきた誇りまで捨てるつもりはなかったのだ。
「選べるのは三つだ。捕虜として処刑されるか、牢で生涯を終えるか、それとも私の側で働くか――さぁどうする?」
「……脅しているのか?」
表情さえ変えず余りに淡々と告げられた言葉に、リゼルヴェルが眉を寄せる。
どれも到底、望んで選べるようなものではなかった。だが、少なくともアルベルトが冗談を言っているようには見えない。
「選択肢を示しただけだ」
「同じことだ」
吐き捨てるように返し、リゼルヴェルは唇を噛んだ。
そもそも自分が侍女になるなど考えたことすらない。剣を握ることには慣れていても、女としての仕事など何も知らなかったのだ。
「他二つは理解できるが――何故侍女なのだ。私にそのような仕事が務まるとでも?」
「無論、思っていない」
「貴様…!」
「だから覚えればいい」
怒気を向けられても動じることなく、アルベルトが淡々と言葉を続ける。
「騎士として培ってきたものまで捨てさせるつもりはない。表向きは侍女として、実際には俺の護衛を務めてもらう」
思わずリゼルヴェルは黙り込んだ。
侍女という立場を与えられながら、剣を振るうことは許される。到底理解しがたい話ではあったものの、警戒を解くには十分ではなかった。
「私が貴様の首を狙うとは考えないのか」
「考えている」
「ならば尚更、側に置く理由が分からない」
又もや迷いのない返答に、リゼルヴェルが目の前の男を睨みつけたものの、対するアルベルトは僅かに口元を緩めた。
「遠くで策を練られるより、近くで直接狙われた方が対処しやすいからだ」
「……正気か?」
「さあな」
冗談なのか本気なのか分からない顔で答えるアルベルトに、リゼルヴェルは眉を顰めた。
敵国の王子でありながら捕虜を側に置こうとしている。考えが理解できず、リゼルヴェルは暫く無言でアルベルトを見つめた。
「後悔するぞ」
「それは楽しみだ」
ここで死を選ぶことは簡単だった。けれども、国へと戻る道が完全に閉ざされたと決まったわけではない。
アルベルトの側へと入り込み、彼を殺して脱出する。敵国の王子を討ち取って帰還すれば、捕虜となった汚名を雪ぐこともできるかもしれない。
やがて、リゼルヴェルは小さく息を吐いた。
「……分かった。侍女になろう」
「決まりだな」
「ただし、いつか必ず貴様を殺す」
「期待している」
そうしてリゼルヴェルは、敵国の王子に仕える侍女となったのだ。
◆
侍女となって最初の一週間で、リゼルヴェルは三度アルベルトの命を狙った。
一度目は朝の紅茶に薬を入れたものの、当のアルベルト本人は一口飲んだだけで異変に気づき、何事もなかったようにカップを彼女へと差し出したのだ。
「飲むか?」
「遠慮しておく」
「そうか。なら、次はもう少し上手く隠すことだな」
二度目は廊下ですれ違いざまに短剣を抜いたものの、片手で受け止められ、そのまま腕をひねり上げられたのだ。
「悪くないが、殺気が分かりやすい」
「放せ」
「侍女が主君に刃を向けている所を他人に見られると流石に庇いきれない。場所を選べ」
三度目は夜中に寝室へと忍び込んだ。今度こそ成功したと思った瞬間、寝台に横たわっていた人影が布を詰めただけの偽物だと気づいたのだ。
おまけに背後から声がして、振り返る間もなく腰へと腕を回された。
「寝込みを襲うなら、寝息を確認するべきだ」
「離れろ!」
「暴れるな。傷が開く」
「貴様に気遣われる筋合いはない!」
「では、怪我が治ってから全力で来い」
耳元で言われ、リゼルヴェルは思わず身体を強張らせた。剣を交えるときならば何とも思わないのに、アルベルトの体温や吐息を意識した途端に顔が熱くなったのだ。
「どうした?」
「何でもない。早く放せ!」
漸く解放されると、リゼルヴェルは逃げるように寝室を後にした。
それ以降も暗殺は尽く失敗した。毒も、罠も、不意打ちも通じず、おまけにアルベルト自身が剣の腕にも優れていて、正面から挑んでも勝てる見込みが薄かったのだ。
一方、侍女としての仕事は少しずつ身についていった。
一度教えられたことを忘れないようにして、剣術と同じように細かく分析したのだ。最初は茶の淹れ方さえ知らず湯の温度を誤ってメイド長に叱られ、礼儀すら分からず令嬢たちからは奇異な目で見られていたものの、数か月が経つ頃には周囲から咎められることも殆どなくなった。
「随分と侍女らしくなったな」
ある朝、リゼルヴェルの淹れた茶を口にしたアルベルトが感心したように言った。
「褒めても何も出ないぞ」
「以前は泥水のようだったからな」
「やはり殺す」
腰の短剣へと手を伸ばすと、アルベルトは楽しそうに笑った。
「今夜は夜会がある。私の同行を頼む」
「護衛ならば騎士を連れていけ」
「侍女としての同行だ」
「断る」
「命令だ」
「私に命令するな」
「一応私は主君なのだが」
リゼルヴェルが顔をしかめると、アルベルトは笑いながら席を立った。
彼はいつもそうだった。敵であるリゼルヴェルを警戒している筈なのに、暗殺を試みても怒らず、むしろ次はどう来るのかと楽しんでいる節さえあるのだ。
そんな彼の態度が、リゼルヴェルには理解できなかった。
◆
ある日の夜会の最中、事件は起きた。王侯貴族が集まる広間で、給仕に扮していた男が突然短剣を抜き、アルベルトへと襲いかかったのだ。
リゼルヴェルは反射的に前へと出た。袖に隠していた短剣を抜いて刺客の刃を受け止めたものの、別の方向からもう一人が現れたことに気付くのが遅れてしまった。
「危ない!」
避けきれない。そう確信した瞬間リゼルヴェルの身体が強く引かれ、アルベルトが自らの肩で刃を受けたのだ。
血が飛び散り、白い礼装が赤く染まる。
「何故……」
思わず、リゼルヴェルは息を呑んだ。
自分はアルベルトを殺そうとしている人間であり、放っておけば刺客に斬られていた筈だった。それなのに、彼は迷うことなくリゼルヴェルを庇ったのだ。
「ぼんやりするな。もう一人いるぞ」
我に返り、リゼルヴェルは刺客へと向き直った。
―――戦いは直ぐに終わった。
敵を取り押さえたあと、リゼルヴェルは負傷したアルベルトへと駆け寄る。
「何故、私を庇った」
「目の前に剣が迫っていたからだ」
「私は貴方を――」
「知っている」
「ならば放っておけば良かっただろう!」
思わず声を荒らげると、アルベルトは痛みに顔を顰めながらも静かに首を横へと振った。
「……放っておけるものか」
リゼルヴェルが目を見開く。
思いがけない返答だった。何故そこまで自分に構うのかと問い質そうと口を開きかけたものの、アルベルトの血に濡れた手が目に入ると、言葉が喉の奥で止まった。
「なぜだ。何故――」
「……お前を見ていると、どうにも放っておけなくなったのだ」
あまりにも曖昧な答えに、思わずリゼルヴェルは眉を寄せた。こちらが聞いているのは理由だというのに。
「……理由になっていませんよ」
「そうだな」
あっさりと認められ、リゼルヴェルは返す言葉を失った。それ以上何を言えばいいのか分からず、ただ目の前にいるアルベルトを見つめる。
自分を庇った所為で傷を負った姿が妙に気に掛かって仕方がなかった。自分がどれほど傷を負っても気にしたことなどなかったのに、今は彼の手から流れる血を見るだけで胸が苦しくなる。
「……おかしい、ですね」
小さく呟いたリゼルヴェルは、それ以上アルベルトに近付こうとはしなかった。側にいるとどうにも落ち着かなくて、それからというものアルベルトと必要以上に顔を合わせないようになっていたのだ。
◆
それから暫くして、リゼルヴェルは王城の中庭で一人剣を振っていた。
侍女として働き、時折アルベルトの護衛をしていたものの、暗殺を試みることは何時の間にかなくなっていた。最初は機会を窺っているだけだと自身に言い聞かせていたが、彼を傷つけることになると考えた瞬間、途端に身体が動かなくなるのだ。
国へと帰ることもできず、敵国の王子を討つこともできない。騎士でもなく、侍女にもなりきれず、女として生きる方法も知らない。
一体自分は何者なのだろうか。そんな事を考え始めていた時、遠くから声が掛かった。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
振り返ると、アルベルトがこちらへと歩いてくるところだった。
「何の用、でしょう」
「お前が夕食に来ないから様子を見に来た」
「お腹は空いていません」
「また食事を抜くつもりか」
アルベルトが近付いてくると、リゼルヴェルは剣を鞘へと収めて彼から目を逸らした。
「私は、もう何を目的に生きれば良いのか分かりません」
弱音を吐くつもりなどなかったから、口から出た言葉に自分自身が驚いた。
「今の私は騎士でもなければ、アースベルク家の後継者でもありません。国へと帰るために貴方を殺すつもりだったのに、それさえ――」
「ならば、私を生きる目的にすればいいのだ」
アルベルトは何でもないことのように答えた。
「私の剣となれ、リゼル」
その呼び方に、リゼルヴェルの胸が大きく跳ねる。
「簡単に言わないで下さい。私は敵国の人間です」
そう言いながら、リゼルヴェルはアルベルトから視線を逸らした。
「今のセルフィアがお前を迎え入れると思うか?」
「それでも、私の国なのです」
アルベルトは何も言わなかった。
リゼルヴェル自身、どうしてそこまでセルフィアに拘るのか最早分からなくなりつつあったものの、それでも長い間過ごしてきた居場所を簡単に手放すことなど到底できなかったのだ。
暫くしてアルベルトが静かに口を開く。
「ならば無理に捨てる必要はない。ただ、国のために自分を殺すことだけはやめろ」
その言葉を聞いた瞬間、リゼルヴェルの胸が僅かに揺れた。
「私には……、それ以外の生き方が分かりません」
長い沈黙の後、リゼルヴェルが小さく呟く。
剣を握り、国のために戦う。それが自分に与えられた役目であり、それを果たすことが自らの生きる意味だと思っていた。それ以外の道など考えたことすらなかった。
そんな彼女を見つめながら、アルベルトが僅かに笑う。
「だったらこれから覚えればいいさ」
リゼルヴェルは、ふと顔を上げた。
以前にも聞いた言葉だった。
侍女の仕事など何も分からないと言ったときも、アルベルトは似たようなことを言った。できないのなら、これから覚えればいいと。
言葉が妙に胸へと残った。
嬉しくて、同時に怖くもあった。もし、この男の言うように別の生き方を選んでしまったのなら、もう二度と以前の場所に戻れない気がしたのだ。
◆
数日後、リゼルヴェルのもとへと一通の手紙が届いた。差出人の名はなかったものの、封蝋にはアースベルク家の紋章が刻まれている。
震える手で封を切ると、中には父の筆跡で短い文が記されていた。
『ヴァルキア第一王子アルベルトを暗殺し、速やかに帰還せよ。任務を果たせばこれまでの失態を不問とし、失敗すれば家の名を汚した反逆者として処分する』
―――それだけだった。
負傷を案じる言葉も、生存を喜ぶ言葉もない。ただ命令だけが簡潔に記されていたのだ。
それでもリゼルヴェルは、手紙を胸元へと抱きしめた。
父が自分を必要としている。帰ることができれば、父に認めてもらえる。もう一度、騎士として生きることもできる。その事実だけを何度も心の中で繰り返し、国へと戻る道はまだ残されているのだと思おうとするも、何故か胸の奥には小さな違和感が残り続けていた。
その夜、リゼルヴェルはアルベルトの寝室へと忍び込んだ。こうして忍び込むのは久々のことだった。
物音を立てぬよう扉を閉め、月明かりの差し込む室内を進んでいく。
だが寝台に近づいても、アルベルトは深い眠りに落ちたまま身じろぎひとつしない。リゼルヴェルは懐から短剣を取り出すと、その切っ先をゆっくりと彼の喉元へと向けた。
―――今なら殺せる。
そうすれば国に帰れる。父のもとへと戻り、失った名誉を取り戻して再び騎士として生きていける。頭ではそう分かっている筈なのに握り締めた短剣は僅かに震えていて、最後まで刃を振り下ろすことができなかった。
「……何故だ」
誰に問うでもなく、リゼルヴェルは小さく呟いた。
「今夜は、随分と迷っているな」
そうするとアルベルトが目を閉じたまま言う。
「起きていたのか」
「お前の足音くらい分かる」
「ならば、何故抵抗しないのだ」
「国へと帰りたいのなら、私を殺せばいい」
アルベルトがゆっくりと目を開けると、青い瞳が刃越しにリゼルヴェルを見つめた。
「どちらを選んでも、それはお前自身の決断だ」
「私自身の……」
「父でも、国でも、私でもない。今度こそお前が決めろ」
リゼルヴェルは息を詰めた。
これまでの人生で、誰かから自分で選べと言われたことは一度もない。父に命じられるまま学び、国に命じられるまま戦い、アルベルトに命じられるまま侍女となった。
何かを選んだつもりでいても、与えられた道の中から選ばされていただけだった。
「私は……」
短剣を握る手に力が込もった。
これまでの人生を否定したくなかった。国のために戦ってきたことも、父の期待に応えようとしたことも、全てが無駄だったなどと認めたくなかった。
刃先が僅かに下がった――その時だった。
「殿下!」
扉が開き、シリウスが部屋へと飛び込んできたのだ。短剣を構えるリゼルヴェルを目にしているものの、特に驚いた様子はない。
「調査していた件が分かりました。先日の戦いについてです」
「今でなければならないのか」
「今だからこそ、お伝えすべきかと」
シリウスは一枚の書類をリゼルヴェルに手渡した。セルフィア側から押収した密書の内容を。
敵へと情報を流していたのはヴァルキアに潜ませていた内通者ではなく、セルフィア国内の人間であり――ガゼル伯爵だった。リゼルヴェルを確実に戦死させる為に不完全な情報を渡して敵地へと送り込み、逆にヴァルキア側には此方の進軍経路を流していたようだったのだ。
「嘘だ」
リゼルヴェルの手から短剣が滑り落ちる。
「父上が、このようなことをする筈が――」
「セルフィア王国は、貴女が捕虜となったことを把握しているようです」
シリウスは淡々と続けた。
「ですが、捕虜交換も救出も求められていません。既に戦死者として処理され、王国騎士団の敗北についても、貴女の指揮に問題があったとされているようです」
「……そんな筈――」
リゼルヴェルは、直ぐにはその言葉を受け入れられなかった。
「情報が、最初から偽りだったとしたら?」
「……え?」
シリウスの言葉に、リゼルヴェルの顔から血の気が引いていく。
「貴女宛ての手紙も確認しました。暗殺が成功すれば利用できるし、失敗すればどのみち敵国内で処刑される――どちらに転んでもアースベルク家にとって都合が良かったのでしょう」
父は自分を必要としているのではなく、国が帰還を望んでいるわけでもない。自分は最初から死ぬことだけを望まれていたのだと、リゼルヴェルはその場へと膝をついた。
「では、私は……何のために」
国のために命を捧げろと言われ、その言葉を信じて剣を振るってきた。数え切れないほど傷ついたし、仲間も大勢失った。それでも父や国の誇りになれると思っていたのに、全てが偽りだったのだ。
リゼルヴェルは床に落ちた短剣を拾い上げると、自らの喉元へと当てた。
「リゼル!」
国にも帰れず、騎士としての名誉も失った。父には望まれてすらおらず、仲間たちさえ自分の指揮のせいで死んだことにされているのだ。
「私が生きている意味など――」
刃を引こうとした瞬間、アルベルトが素手で短剣を掴んだ。彼の掌に鋭い刃が食い込んで、血が滴り始めた。
「放せ!」
「放さない」
「手が……!」
「俺の側にいると決めたのはお前だろう。それなのに勝手に死ぬつもりか」
リゼルヴェルは目を見開いた。
「何を、言って……いるのですか」
「以前言っただろう。生きる目的がないのなら、私を目的にすればいいと」
アルベルトは刃を握ったまま、流れ落ちる血にも構わずリゼルヴェルを見つめていた。
「……あのときは、それでいいと思っていた。だが今は違う」
「一体どういう……?」
「お前がいなくなるのは嫌だ」
リゼルヴェルの瞳が揺れる。アルベルトは握り締めた刃をゆっくりと押し返しながら、静かに続けた。
「剣として側に置きたいわけではない。侍女だからでもない」
ほんの僅かに息をつき、アルベルトは彼女の名を呼んだ。
「リゼルヴェル。お前自身に、私の側にいてほしい」
国のためでも、家のためでもなく、自分自身として側にいてほしいと言われたのは初めてだった。リゼルヴェルは返事をすることができずに、ただアルベルトを見つめた。
「私は……貴方を殺そうとしました」
「知っている」
「敵国の人間で……」
「それも知っている」
迷いのない返答だった。
それでも、リゼルヴェルの中から不安が消えることはなかった。自分に何ができるのか、側にいて何をすればいいのか、それすら分からないのだ。
これまで剣を振るうことだけを考えて生きてきた。誰かと寄り添って生きることなど、そんな未来を考えたことは一度もなかった。
「私は……誰かと、どう生きればいいのか分かりません」
漸く絞り出した言葉に、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「これから考えればいい」
あまりにもあっさりとした答えに、リゼルヴェルは顔を上げた。
「……これから?」
「ああ。今までどう生きてきたかは関係ない。これからどうしたいのかをお前自身が決めればいい。だろう?」
「私自身が……」
その言葉を、リゼルヴェルは小さく繰り返した。
「……私に、できるでしょうか」
「それはやってみなければ分からないな」
アルベルトはそう言うと、彼女へと手を差し出した。
「だから、まずは一つずつ決めていけばいいさ」
差し出された手を見つめながら、リゼルヴェルは暫く動けなかった。
それでもやがて迷うようにその手に自身の手を重ねると、僅かに笑ったアルベルトにつられるように、リゼルヴェルは口元をほんの少しだけ緩ませた。
温かな手だった。
「……不思議な人ですね、あなたは」
「よく言われる」
何時ものような余りにも気の抜けた返事だったのに、リゼルヴェルの頬を一筋の涙が伝う。
自分でも何故泣いているのか分からなかった。気づけば次から次へと涙が溢れ、慌てて拭おうとしても止まってはくれない。
「……すみません」
「謝ることではない」
「ですが……私は……」
言葉が続かなかった。何を言えばいいのか分からない。ただ、ずっと胸の奥に押し込めていたものが堰を切ったように溢れてくるのだ。
父に認めてもらいたかった。家の役に立ちたかった。国に必要とされる騎士でありたかった。そのためなら男として生きることも、戦場で命を懸けることも苦ではなかったし、むしろそれが自身の生きる道なのだと信じて疑わなかった。
「……私、頑張ったんです。父に認めてもらいたくて……国の役に立ちたくて……ずっと、頑張ってきたんです」
震える声で、漸くそれだけを口にする。アルベルトは何も言わずに、ただ彼女の言葉を聞いていた。
「なのに……」
その先を口にしようとして、リゼルヴェルが唇を噛む。
何を失ったのかさえ、まだ上手く分からない。ただ、これまで信じてきたものが足元から崩れていくような感覚だけがあったのだ。
「……私がやってきたことは、何だったのでしょう」
しばらくの沈黙のあと、アルベルトが静かに答えた。
「無駄ではない」
リゼルヴェルが顔を上げる。
「お前が守った者も、救った命も、これまで振るってきた剣も、全てお前自身が積み重ねてきたものだ。それがたとえ誰かの思惑で始まったものだとしても、それまでの全ての努力が消えるわけではない」
その言葉を聞いた瞬間リゼルヴェルの顔が歪んだ。堪えようとしていた声が漏れ、とうとう両手で顔を覆う。
「……っ、う……」
それから先は言葉にならなかった。アルベルトは何も言わずに、泣き続ける彼女の隣にい続けたのだった。
◆
密書を届けた者はリゼルヴェルが任務を果たさなかったと知るなり、口封じのために動くことにした。王城内に潜んでいたセルフィアの刺客が彼女たちが眠る元へと押し入り、剣を抜いたのだ。
「裏切り者め!祖国の命に背き、敵国の王子に媚びるとは!」
刺客の罵声が響く中、リゼルヴェルはアルベルトの前へと静かに立った。
かつてなら、その言葉に胸を抉られていたかもしれない。けれど今は、不思議なほど心が揺れなかった。
祖国を裏切ったのかと問われれば、そうなのかもしれない。それでも今ここで剣を向ける相手を間違えるつもりはなかった。
剣を構え直して斬り伏せると、刺客の最後の一人が地へと倒れ伏したところで辺りには静寂が戻っていた。僅かに息を整えながらリゼルヴェルが剣を下ろす。
「祖国を裏切るのか」
床に伏せた刺客が憎々しげに尋ねる。
「……そうかもしれない」
「ならば――」
「だが、私を捨てた国の命令にこれ以上従うつもりはない」
言葉を遮ったリゼルヴェルはゆっくりと息を吐いた。口にした瞬間、胸を締めつけていた何かがふっとほどけていった。
◆
事件が片づいた数日後、リゼルヴェルは王城の謁見の間へと呼び出されていた。玉座の前には国王と王妃が座り、その傍らにアルベルトが立っている。
遂に処分されるのだろうか――そう考えた瞬間、胸の奥がひどく重くなった。覚悟していた筈なのに、いざその時が来たのだと思うとアルベルトの側で過ごした日々が次々と思い浮かんだのだ。
もう、あの声を聞くこともできないのだろうか。そう思うと、理由の分からない寂しさが込み上げてくる。だが悟られまいと俯き、リゼルヴェルは静かに片膝をついた。
すると、アルベルトが一歩前へと進み出る。
「リゼルヴェル・アースベルク」
「はい」
「お前を侍女の任から解く」
胸が僅かに痛み、途端に息苦しくなる。何より、アルベルト本人から告げられたことが苦痛だったのだ。
「――そして新たに、私の直属騎士に任命する」
リゼルヴェルは顔を上げた。
「私を……騎士に?」
「そうだ」
「私は敵国の人間です」
「なら今のお前は、どこの国の人間だ?」
尋ねられ、答えに詰まった。
「……分かりません」
「ならば、これから決めればいい」
アルベルトは右手を差し出した。
「父親の命令でも、国の都合でもない。お前自身の意思で選ぶのだ」
差し出された手を見つめて暫く迷った後、リゼルヴェルはその手を取った。
「私リゼルヴェル・アースベルクは、アルベルト殿下の剣となることを誓います」
「受け入れよう」
「ただし、民や国を害するようなことがあれば、私は容赦なく殿下に剣を向けるでしょう」
謁見の間に緊張が走ったものの、アルベルトだけは笑っていた。
「それでこそ私の騎士だ」
◆
それから一年が経ち、リゼルヴェルはアルベルトの直属騎士として多くの任務をこなして、ヴァルキアの人々からも少しずつ認められるようになっていた。
男として振る舞う必要がなくなったからといって、急に令嬢らしくなれたわけではない。髪は以前より少し伸びたものの、動きやすいよう後ろで束ねることが多く、ドレスよりも身体を動かしやすい騎士服を好んで選んでいた。剣を握っている方が落ち着くのは相変わらずで、王宮で開かれる茶会や晩餐会に呼ばれても、令嬢たちの話題にはなかなか馴染めなかった。
だが侍女たちに髪を整えられたり、身なりについて小言を言われたりする度に戸惑いながらも、リゼルヴェルは少しずつ女としての自分を受け入れていけるようになった。
そんな彼女の姿を見て、アルベルトは時折楽しそうに笑っていた。つられるように、リゼルヴェルも以前よりよく笑うようになっていた。
ある日の夕暮れ、城の露台には二人の姿があった。
眼下には夕日に染まった王都が広がり、遠くから人々の声や鐘の音が微かに聞こえてくる。リゼルヴェルは欄干に手を置きながらそんな景色をぼんやりと眺めていた。
「リゼルヴェル」
呼ばれて振り返ると、アルベルトがこちらを見ていた。
「何でしょうか」
「お前は、これからどうしたい?」
突然の問いに、リゼルヴェルは目を瞬いた。
「……どうしたい、と言われましても」
以前までなら答えは決まっていた。家のために、国のために、自分に与えられた役目を果たす。それだけを考えて生きてきたのだから。
けれど、今は違うのだ。
「分かりません」
正直にそう答えると、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「ですが……今のほうが好きです」
リゼルヴェルは言葉を探すように、夕暮れの王都へと視線を戻した。
「……それなら十分だ」
隣から聞こえた声に、リゼルヴェルは小さく笑った。
暫く二人で景色を眺めていると、アルベルトが不意に彼女の手を取った。驚いて振り向いたリゼルヴェルの指先に、アルベルトはそっと口づける。
「殿下……?」
「私は、お前の主君でいるだけでは足りない」
リゼルヴェルが思わず顔を上げると、アルベルトは真っ直ぐに彼女を見つめていた。彼の眼差しには、いつもの王子としての余裕も、主君としての威厳もなかった。
「……どういう意味ですか?」
僅かに声が震える。アルベルトは一度だけ息を吐くと、ゆっくりと言葉を続けた。
「私はお前を愛している。だから王子としてではなく、一人の男としてお前の帰る場所になりたい。リゼル」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、リゼルヴェルは息を呑んだ。
「……私を?」
「ああ。国のためでも、騎士としての腕を買ったからでもない。リゼルヴェルという一人の女に私は惹かれたのだ」
頬が熱くなり、リゼルヴェルは思わず視線を逸らした。
「……私は、恋というものをよく知りません」
「私もだ」
意外な返事にリゼルヴェルが目を丸くすると、アルベルトは苦笑しながら続けた。
「だからこれから少しずつ知っていこう」
「……そうですね」
言葉が不思議と胸に残り、リゼルヴェルは小さく頷いた。少しの沈黙が流れた後、彼女は困ったように眉を下げる。
「ですが……貴方が傷ついているのを見る方が、戦っていた頃よりもずっと苦しいです」
「それは随分と嬉しい告白だな」
「告白ではありません!」
思わず声を荒らげると、アルベルトは楽しそうに笑った。
「リゼルヴェル」
「はい」
やがて笑みを収めたと思うと、アルベルトは真っ直ぐにリゼルヴェルを見つめた。
「私の妻になってくれ」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、リゼルヴェルは瞬きを繰り返した。
「それは命令ですか?」
「違う。一人の男として頼んでいる」
リゼルヴェルは暫く黙ってアルベルトを見つめていた。
「……少し考えさせてください」
「ここまで待たせておいて、まだ待たせるのか」
「自分で決めろと仰ったのは貴方でしょう」
「確かに言ったが……。今になって後悔しているところだ」
肩を落とすアルベルトを見て、リゼルヴェルは思わず笑みをこぼした。
「では、もう一度言ってください」
「それで返事が変わるのか?」
「言い方次第では」
アルベルトは一瞬だけ目を見開いたものの、直ぐに表情を和らげると改めて彼女の手を取った。
「リゼル。私は貴女を愛している」
真っ直ぐに向けられた言葉に、リゼルヴェルは一瞬だけ息を止めた。
「これから先も、私の隣にいてほしい」
アルベルトは一度言葉を切ると、リゼルヴェルの目を真っ直ぐに見つめた。
「……私の妻になってくれないか」
これまで幾度となく彼の隣に立ってきた。剣を握る時も、侍女として仕える時も、そして自身の生き方を決める時も、何時しかアルベルトの存在は彼女の中で大きなものになっていた。
「……はい」
迷いなく小さく頷くと、リゼルヴェルは穏やかに微笑んだ。
「喜んでお受けします。私も、貴方を愛していますから」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあったものが漸く形になったような気がした。
アルベルトは一瞬だけ目を見開くと、次の瞬間にはリゼルヴェルを強く抱き寄せていた。
「……アルベルト様、少し苦しいです」
「すまない。……嬉しくて、抑えられなかった」
「ふふ。王子ともあろう方が随分と素直になられましたね」
「今くらいは許してくれ」
耳元で囁かれ、リゼルヴェルの頬がほんのりと赤くなる。それでも今度は身を離すことなく、そっと彼の胸元へと身を預けた。
国のために生き、家のために死ぬ筈だった騎士はその日、自分自身のための未来を選んだのだった。
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只今「ヒロインの座、奪われました。~奪われた身体を取り戻そうとしただけなのに、気づけば執着の矛先は私に向いていました~」と「今度は貴方とともに」を連載中ですので、もし興味を持っていただければ少しでも覗いていただけたら嬉しいです。
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