3.一度目の答え
問い掛けたものの、カルロから直ぐに答えが返ってくることはなかった。
先ほどまで以上に険しい表情を浮かべたまま、何かを確かめるように暫く俯いている。リリアも急かすことはせず、彼が口を開くのを待ち続けた。
「……あの日。君との婚約を破棄した日、私は皇宮で眠りについた」
「はい」
カルロは一度言葉を切った。
「けれど翌朝目を覚ました時、……私は皇宮にはいなかった」
リリアの眉が僅かに寄る。
「では、何処に?」
「ナイーゼ家だ」
「……え?」
「正確には、君が軟禁されていた部屋にいた」
予想もしていなかった答えにリリアはカルロを見つめた。彼が何を言おうとしているのか少しも分からなかったのだ。
「どうして殿下が、私の部屋に?」
「最初は私にも分からなかった」
カルロが重い声で答える。
「目を覚ました時には何が起きたのか理解できなかった。部屋も見覚えがなかったし、身体の感覚まで妙で……。それで、自身の姿を見て初めて気付いたんだ」
そこで彼は僅かに目を伏せた。
「私は、君になっていた」
数秒、言葉の意味すら理解できなかった。
「……私に?」
「ああ」
「それは……私の身体に入っていた、ということですか?」
「そうとしか言いようがない。少なくとも、私が覚えている限りではそうだった」
冗談を言っているようには到底見えない。それどころかカルロ自身も未だに説明のつかない出来事として語っているのか、言葉を選びながら慎重に話している。
正直、リリアも訳が分からなかった。だが改めて考えてみると時が戻った事自体が摩訶不思議な出来事であり、他者の身体に乗り移ることがあってもおかしくはないのだ。
だがその話を聞いたことで、これまで分からなかった一つの疑問に繋がった。
「だから……知っていたのですか?」
カルロがリリアを見る。
「私が屋敷で、どんな扱いを受けていたのか」
「……ああ」
短く答えると、カルロは視線を落とした。
「君の身体で目を覚ましてから、君があの屋敷でどんな生活をしていたのかを知った。使用人たちの態度も、君が置かれていた状況も。それまで私が知っていた生活とは何もかも違っていた」
カルロの様子を見る限りそれだけではないのだろう。次にその名前が出た瞬間、リリアの指先が僅かに動いた。
「そして……アナ・ナイーゼも来た」
「アナが?」
「ああ」
カルロは苦しげに息を吐く。
「その時の私は、まだ彼女を信じていた。婚約破棄の場でも君を庇い、できる限り罰を軽くしてほしいと願った心優しい妹なのだと」
リリアは何も言わなかった。
リリアも覚えている。あの日のアナは、姉を庇う心優しい妹として振る舞っていた。そしてカルロも、それを疑っていなかった。
「だから君の身体でアナを見た時も、私は彼女に事情を聞こうとした」
「……それで?」
「全く違った。私が知っていたアナとは、何もかも」
返答は早く、カルロの声が僅かに震えた。
「彼女は君を心配したわけではなかった。軟禁された君を見て笑うためだけに部屋へと来て、私が君を信じなかったことまで……面白そうに笑っていた」
リリアは僅かに目を伏せた。
驚きはなかった。アナが何をしたのかは自分の方がよく知っているものの、だがそれをカルロ自身の口から聞くのは奇妙な感覚だった。
「そこで、ようやく気付いた。……私が信じていたものが、間違っていたのだと」
「……ようやく」
思わず零れた声にカルロの言葉が止まる。
先ほどまで知りたかった答えの一つは確かに得られた。カルロが何故一度目の自分の境遇を知っているのか。何故今の人生では違う行動を取っていたのか。その理由は分かった。
けれど聞いたことで別の感情が消えたわけではなく、むしろ聞いたからこそ尋ねずにはいられなかったのだ。
「……殿下。私は、あの日に何もしていないと言いましたよね」
カルロの表情が僅かに強張る。
「……ああ」
「アナを虐めてなどいないと、何度も申し上げました」
「覚えている」
「それでも、殿下は信じてくださらなかった」
「……そうだ」
「私の話を途中で遮ってまで、アナの方を信じましたよね」
カルロは答えなかった。答えられないのではなく、否定することができないのだろう。
彼の沈黙を前にすると、リリアの脳裏には一度目のあの日の光景が嫌でも蘇ってきた。大勢の貴族に囲まれた広間で、自分へ向けられていた悪意の籠もった視線も、次々と並べられた証言や証拠も、そして何を言っても聞く耳を持とうとしなかったカルロの姿も今でも鮮明に覚えている。
「……それなのに」
声が僅かに震える。リリアは一度言葉を止めたものの、カルロから目を逸らさなかった。
「殿下は、御自身が私になって初めて信じたのですか?」
カルロは何も言わない。
「私が言った時には信じてくださらなかったのに、自分の目で見て、自分が同じ場所に置かれて……それで初めて、私が嘘を吐いていなかったと分かったのですか?」
暫くして、カルロが小さく頷いた。
「……そうだ」
たった一言、言い訳もしなければ弁解もない。けれど、その答えがリリアの胸に深く刺さった。
「最低ですね」
「………ああ」
「私は、どうすればよかったのですか?」
カルロが顔を上げる。
「私は殿下に信じていただきたかった。だから何度も違うと言いました。何もしていないと、信じて欲しいと……それでも殿下は、私ではなくアナを信じた」
声を荒らげているわけではなかったものの、それでも口にする程に胸の奥に押し込めていたものが少しずつ溢れてきた。
「ならあの時、私は何をすればよかったのですか。もっと必死に訴えれば、殿下は信じてくださったのですか。それとも、私自身が無実の証拠を揃えなければならなかったのですか?」
「リリア」
「私は……」
そこまで言ったところで言葉が詰まり、リリアは一度口を閉ざした。
自分でも何を求めて問い掛けているのか、もう分からなくなっていた。一度目の自分がどうすれば救われたのか、その答えを今さら知ったところで過去が変わるわけではないことくらい分かっている。
それでも長い間胸の内に残り続けていた疑問を、今ここで聞かずにはいられなかったのだ。
「……信じてくださると思っていたのです」
先ほどまでよりも小さな声で言うと、カルロの瞳が僅かに揺れた。
「他の誰が何を言っても、最後には殿下だけは私を信じてくださると……ずっと、そう思っていました」
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。一度目の自分が最後まで縋っていたものだったからだ。
「だから、あの日……殿下にまで信じてもらえなかったことが、一番――」
最後まで言えず、リリアは唇を結んで一度目を伏せた。
「君が何をすればよかったのかなんて、ない」
暫くして聞こえてきたカルロの低い声に、リリアはゆっくり顔を上げた。
「……何もない?」
「ああ」
カルロは真っ直ぐリリアを見ていた。
「君は既に言っていた。何もしていないと、私に何度も伝えていた。それ以上を君に求める資格は、私にはない」
「では、何故……」
「私が、聞かなかったからだ」
カルロはそこで一度息を止めるように黙った。
「一度目の私は、理解しようとすることを途中でやめた」
リリアの眉が僅かに寄る。
「……やめた?」
「悪い噂を聞くようになってから、私の知っていた君と目の前の君が繋がらなくなった。それでも理由を確かめようとはせず、君が変わってしまったのだと思うことにした。その方が、自分にとって都合がよかったからだ」
カルロは苦しげに眉を寄せたものの、予想していた答えとは少し違っていて、リリアは何も言えなかった。
「本当は違和感はいくつもあった。君が家のことを話そうとしなかったことも、何かを訴えるような様子を見せていたことも。それでも私は、それを一つも繋げようとしなかった」
後になって気付いたものをカルロが一つずつ言葉にしていく。
「君が何度も『信じてほしい』と言っていた意味も、君の身体になって……ようやく分かった」
そこでカルロの表情が歪んだ。
「……だから今の殿下は私を信じるのですか?」
「ああ。一度目のように、君の言葉を聞く前から疑うことだけは二度としたくなかった」
「それは……一度目の償いのため、ということですか?」
リリアが問い返すとカルロは直ぐには答えず、僅かに視線を落とした。
「……最初は、そうだったと思う」
「最初は?」
「ああ。一度目で自分が何をしたのかを知っていたから、今度こそ同じことを繰り返してはいけないと思っていた。君を助けることも、母君を助けるために動いたことも、君の言葉をきちんと聞くことも……できることなら何でもするつもりだった」
「それが罪滅ぼしになると思ったからですか?」
「……ああ。そうすれば少しでも償えるのではないかと考えていた」
カルロは否定しなかった。
「けれど、それであの日のことが許されるとは思っていない。何をしたところで、一度目に私が君を信じなかった事実までなくなるわけではないから」
リリアは黙ったままカルロを見つめる。
「では……先ほど『最初は』と仰ったのは?」
その問いに、カルロは一度言葉を止めてから静かに口を開いた。
「今は、償うためだけに君の側にいるわけではないからだ」
リリアの眉が僅かに動く。
「初めは、一度目と同じことを繰り返さないことばかり考えていた。君を苦しめるものを先に取り除けば、それが償いになると思っていた」
「今は違うのですか?」
「ああ。一度目を知っているからといって、今の君が何を望むかまで私に分かるわけではない。私が勝手に決めれば、結局はまた君の言葉を聞かないことになる」
カルロは僅かに視線を落としたものの、すぐにリリアへと戻した。
「……アナの時も?」
「いや。あの時は、私も一度目の記憶に引きずられていた」
やがてカルロはそう答えると、僅かに目を伏せた。
「私は一度目のアナが何をしたのかを覚えていた。だから、今の彼女も同じように考えて……処罰するべきだと思っていた」
「では、私が何も言わなければ……」
「恐らく、考えを変えることはなかった」
カルロは取り繕おうとはしなかった。
「君に言われて初めて気付いたんだ。一度目のことを知っているからといって、まだ何もしていない今のアナまで同じように裁くのは違うのだと」
その答えを聞きながら、リリアはあの時のことを思い返した。
「……一度目とは違いますね」
思わずそう口にすると、カルロが目を見開いた。
「一度目の殿下は、私が何を言っても聞いてくださいませんでした。――けれど、あの時は違った。私の話を聞いた上で御自身の考えを変えてくださった」
口にしながら、リリア自身もその違いを改めて実感していた。
今のカルロも一度目の記憶に囚われることがある。アナの件がまさにそうで、けれど一度目と決定的に違うのは、そこで自分の考えだけを正しいと決めつけず、リリアの言葉に耳を傾けたことだった。
「……あの時、君に言われなければ、私はまた同じ間違いをしていたのかもしれない」
リリアは何も返さずに暫くカルロを見つめていた。
一度目を経験したからといってカルロが何もかも正しくなったわけではなく、今でも判断を誤ることはあれば過去の記憶に引きずられることもある。それでも、自分一人で答えを決めつけるのではなく、リリアの言葉を聞こうとするようになったことだけは否定できなかった。
そう考えれば、今のカルロが何故これほど一度目とは異なるのか、理由もようやく理解できる気がした。だからといって、あの日に受けた傷まで消えるわけではなく、理由を知ったことと一度目の彼を許せることはリリアにとって全く別の問題だった。
「……殿下」
「ああ」
「私は、まだ殿下を許したわけではありません」
「分かっている」
あまりにも迷いなく返され、リリアは目を瞬かせた。
「今の殿下が一度目とは違うことも分かっています。これまで私を助けてくださったことも、母を守ってくださったことも……感謝しています」
一度言葉を切る。
「ですが、それとあの日のことは別です」
「ああ」
「私は殿下に信じてもらえなかった。それで傷付いたことも、今でも覚えています」
「忘れてくれとは言わない」
カルロは静かに答えた。
「許してほしいとも、今ここで言うつもりはない」
リリアは何も言わず彼を見る。
「それを決めるのは、君だから」
カルロはそれ以上続けず、今の自分を見て欲しいとも一度目とは違うのだから信じて欲しいとも言わないまま、リリアがどう受け止めるのかを待っていた。
カルロの姿を見つめながら、リリアは胸の奥に残ったものを確かめるようにゆっくりと息を吐いた。
何故カルロは自分を信じてくれなかったのか。何故アナの言葉を信じながら、自分の言葉には耳を貸してくれなかったのか。一度目の人生を終えてからもずっと胸の内に残り続けていた疑問だった。
カルロの答えを聞いたからといって一度目に受けた傷が消えるわけではない。自分がどれほど訴えても届かなかったものを、彼は自らが同じ立場に置かれて初めて理解したのだから、酷い話だという思いも変わらなかった。
ただ、何故一度目のカルロが自分を信じなかったのか、そして何故今のカルロがあの頃とは違うのか、その理由はようやく分かった。
以前なら、一度目の彼がしたことだけを見て今のカルロまで拒絶していた。けれどアナの件を経た今は、それでは目の前にいる彼自身を見ていることにはならないとも分かっている。
まだ許せない。その気持ちは変わらない。それでも、これからカルロをどう見るのかは、一度目だけではなく今の彼が何をするのかを見た上で決めようとリリアは思ったのだ。
そこでふと、別の疑問が浮かぶ。
カルロは婚約を破棄した翌朝、自分の身体で目を覚ましたと言った。けれどリリア自身の記憶は、屋敷へ戻され毒を飲んだところで途切れている。ならばカルロの一度目はどこまで続いていたのだろうと。
「……殿下。先ほど、一度目の私の身体になったと仰いましたよね」
「ああ」
「その後は……どうなったのですか?」
カルロが目を見開いた。
「私は、毒を飲んだところから先を覚えていません。ですが殿下は、その後に私の身体で目を覚ました」
「……ああ」
「でしたら、殿下の一度目は……どこで終わったのですか?」




