2.記憶の食い違い
数日後リリアは自分からカルロに話がしたいと伝え、皇宮を訪れた。
先日の会話を経て、彼にも一度目の記憶があるという考えはリリアの中で殆ど信に変わっている。だから今日は、遠回しに反応を窺うつもりはなかった。
確かめたいことは幾つもあった。カルロは何処までを覚えているのか。そして同じ記憶を持っているのだとしたら、何故今の彼はあの頃とはこれほど違うのか。何より、一度目に自分を断罪して婚約を破棄した日のことも覚えているのか。
その答えを聞くために、リリアはここへ来たのだ。
案内された部屋に入ると、既にカルロは待っていた。以前とは違って弱々しい様子は見られず、彼はリリアの姿を見るなり椅子から立ち上がった。
「来てくれてありがとう」
「こちらからお願いしたのですから、殿下がお礼を仰ることではありません」
「それでもだよ。君の方から話したいと言ってくれたのは初めてだったから」
僅かに嬉しそうな声で言われてリリアは返答に困った。
確かにこれまでは必要があってカルロと話すことはあっても自分から会いたいと申し出たことはなかった。今回に限って何の用なのかと不思議に思っていてもおかしくない筈だ。
リリアの胸に僅かな緊張が走った。二人が向かい合って席に着いた後も直ぐに本題へと入ることはできず、用意された茶に一度口を付けて何処から話せばいいのか考える。カルロも何かを察しているのか自分から話題を振ることはせず、リリアが口を開くまで黙って待っていた。
このままでは、いつまでも始まらない。茶を置き直し、決心したようにカルロを見るとリリアが口を開く。
「殿下。先日お話ししたことを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。覚えているとも」
返答はすぐに返ってきた。
ここまで来て、また遠回しな質問を重ねても仕方がない。リリアは膝の上で重ねていた手に少しだけ力を込めると、正面からカルロを見つめた。
「一つだけ、正直に答えていただけますか?」
「……分かった」
返事を聞き、リリアは一度だけ息を整える。
「――殿下も、一度目を覚えているのですか?」
声に出した途端、部屋の空気が変わったように感じた。
カルロは何も答えない。驚いた様子はなく、目を見開くことも何のことかと聞き返すこともない。ただ、リリアをじっと見つめていた。
その反応だけで殆ど答えは出ていたものの、それでもリリアは彼の返事を待った。
やがてカルロが静かに息を吐き、僅かに目を伏せる。
「……ああ」
短い答えだった。だがその一言を聞いた瞬間、これまで曖昧だったものがようやく形を持った気がした。
―――やはりそうだったのか。
今のカルロが一度目とはあまりにも違っていたことも、母の事故を防ぐために惜しみなく力を貸してくれたことも、アナに対して不自然なほど警戒していたことも、全て一度目の記憶を持っていたからだった。
納得した筈なのに胸が軽くなることはなく、むしろ今まで避けていたものまで現実味を帯びてきた。一度目を覚えているのならば、自分に何をしたのかも覚えているのか。
リリアが黙っていると、カルロは何かを言い掛けたものの結局そのまま口を閉ざした。
リリアは自分から続ける。
「私も、そうです。一度目を覚えています」
その瞬間、カルロの表情が変わった。僅かに息を呑み、膝の上に置かれていた手が強く握られている。先日の会話で薄々気付いていたようではあるものの、それでも実際に本人の口から聞くのとでは違ったらしかった。
「……そう、か」
辛うじて返ってきた声は、先ほどまでより僅かに低かった。
「驚かないのですね」
「……先日の話を聞いて、もしかしたら、とは」
「やはり気付いていたのですね」
「ああ。けれど、君が自分から話さないのなら、私から聞くつもりはなかった」
理由までは言わなかったものの、それでもリリアには何となく分かった。
一度目の記憶があるのなら、リリアがカルロに対してどのような感情を抱いていてもおかしくない。ましてや、それを本人に知られたくないと思っている可能性もあったのだ。
だから何も聞かなかった。少し前までならそのことに安堵していたかもしれないものの、今は自分から話を聞くためにここに来たのだ。
「殿下は、どこまで覚えていらっしゃるのですか?」
今度はリリアから尋ねた。
「どこまで……?」
「一度目の人生です。最後まで全て覚えているのですか?」
カルロは直ぐには答えなかったものの、暫くして今度は彼の方から静かに尋ねられた。
「その前に、一つだけ聞いてもいいか?」
「はい」
「君は、どこまで覚えているんだ?」
声は落ち着いていたが、表情までは隠し切れていない。何を恐れているのかリリアには直ぐに分かったものの、敢えてそのことは口にしなかった。
「覚えていますよ」
曖昧に答えると、カルロの指先が僅かに動く。
「……婚約を破棄された日のことも」
カルロの顔から、はっきりと血の気が引いた。予想していた反応だったものの、実際に目の前で見れば胸の奥に複雑なものが広がる。
あの日、カルロは一度も自分の言葉を信じてくれなかった。アナの証言と用意された証拠を信じ、何度否定しても聞き入れず、大勢の前で自分を悪女として扱った。
今さら彼がどんな顔をしたところであの日のことが消えるわけではないが、それでもリリアは責める言葉を口にせず、ただ続きを待っていた。
「……すまない」
やがて零れ落ちた言葉に、リリアは僅かに眉を寄せた。
「今はその話をするために来たのではありません」
「……ああ」
「謝っていただくとしても、先ずは私が知りたいことに答えてからにしてください」
カルロは何も言い返さず、小さく頷いた。
「殿下の方は、いつから覚えているのですか?」
「物心が付く頃には、もう覚えていた」
「そんなに早くから……?」
「…ああ」
リリアは思わず黙り込んだ。
それなら、初めて会った時から様子がおかしかったことにも説明がつく。
まだ婚約者ですらなかった自分に対して妙に親しげで、母を助けてほしいという意味の分からない頼みにさえ詳しい事情を聞く前から協力するとカルロは答えている。今になって思えば、あの頃から既に一度目の自分を知っていたのだ。
「では、一度目のことも最後まで覚えているのですね?」
「……最後まで、という言い方が正しいのかは分からない」
予想していなかった返答に、リリアは目を瞬いた。
「……どういう意味ですか?」
問い返したリリアに、カルロはすぐには答えなかった。何から話せばいいのか迷っているように一度口を閉ざした後、ようやく言葉を選びながら口を開く。
「一度目で君との婚約を破棄したことは、覚えている」
リリアの眉が僅かに寄った。
―――やはり、あの日のことも覚えている。
ならば何故、今のカルロが最初から自分を助けようとしていたのかにも説明がつく。一度目で自分が置かれていた状況を知り、その上で今度は同じことを繰り返さないようにしていたのだと考えれば、これまでの行動にも一応の筋は通るのだ。
だが、それならば確認しておきたいことがあった。
「その後のこともご存じなのですよね?」
カルロが小さく頷いた。
「では、婚約を破棄された後の私が、ナイーゼ家でどうなったのかも?」
「………知って、いる」
「……何処までですか?」
カルロはすぐには答えず、リリアの問いの意図を確かめるように見つめ返した。
「君が屋敷へ戻った後、まともな扱いを受けていなかったことは、……知っている」
「それは……今の人生で知ったことではないのですか?」
「ああ。一度目で、……知った」
リリアはそこで一度口を閉ざした。
カルロがそこまで知っているのであれば、その先も知っているのではないか。少なくともリリアには、そう思えたのだ。
「では……私がその後どうなったのかも、ご存じなのですか?」
今度はカルロが僅かに不思議そうに目を瞬かせた。
「その後?」
「はい」
返ってきた言葉に、今度はリリアが目を瞬く。
「……私が、最後にどうなったのかです」
「最後……?」
それでもカルロの表情は晴れない。そこまで知っているのに何故分からないのだろうと、今度はリリアが戸惑う。
―――何かがおかしい。
カルロの話し方を聞いていると、自分が考えている「その後」と、彼が知っている「その後」が微妙に噛み合っていないようにリリアには感じたのだ。
「……殿下は、私が死んだことをご存じないのですか?」
カルロの顔から、はっきりと表情が消えた。ほんの一瞬、質問の意味を理解できていないように見えた。
「…………死んだ?」
聞き返されたことで、今度はリリアの方が言葉を失った。
「……はい」
「何の話、だ」
演技には見えなかった。誤魔化そうとしている様子もなく、本当に分からないという顔でこちらを見ている。
リリアは暫くカルロを見つめた後、ようやく自分たちの記憶が完全には一致していないことに気付いた。
「……知らないのですか?」
「待って、くれ」
カルロの声が明らかに変わった。
「君は、何を言っている?」
「殿下は、私が一度目の人生で……死んだ、ことを知らないのですか?」
返事はなかった。けれど、その反応だけで十分だった。カルロは本当に、リリアが一度目の人生で死んだことを知らないのだ。
だとすれば、今度は別の疑問が残る。自分の死さえ知らなかったカルロが、何故その前にナイーゼ家で起きていたことを知っているのだろう。
リリアには、その理由がまるで分からなかったのだ。
「では、殿下が知っている一度目の私は……」
そこまで言ってから、リリアは一度口を閉ざして彼の様子を伺った。カルロの顔色は先ほど婚約破棄の記憶について話した時よりも明らかに悪くなっていたものの、ここで曖昧にするわけにはいかない。
「私は、あの日の後も生きていることになっているのですか?」
「少なくとも、私は……」
カルロはそこで言葉を止めた。
「君が……死んだ、とは。……知らなかった」
その答えを聞いて、今度はリリアの方が困惑した。
カルロは、自分が婚約を破棄された後に屋敷でどのような扱いを受けていたのかを知っている。それなのにリリアが命を絶ったことだけは本当に知らないらしい。
普通に考えれば順序が逆ではないだろうか。自分の死をきっかけに何かを調べ、その過程で軟禁されていた時の扱いを知ったというのなら分かる。けれどカルロは、リリアの死を知らないまま気付かれていなかった筈の事実を知っている。
「……本当に、知らないのですね」
カルロの様子を見れば、それが誤魔化しでないことくらい分かる。リリアは僅かに目を伏せ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
自分から確かめると決めてここへ来た。それでも、いざあの日のことを本人へ話そうとすると、簡単には言葉が出てこなかったのだ。
「私は……」
リリアは無意識に指先へと力を込めていた。一度出した声が思った以上に掠れ、そこで言葉が止まる。
一度目のことを思い出して身体が震えたものの、小さく息を整えてから漸くリリアは顔を上げた。けれどカルロと目が合った途端、あの日の記憶と目の前にいる彼が重なりそうになり、すぐに視線を逸らしてしまう。
「私は……あの後、死にました」
「……」
「婚約を破棄されて、屋敷へ戻って……その後です」
視線を下へと向けたまま呟くようにリリアは語りだした。
カルロは何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。先ほどまでリリアを見つめていた瞳は大きく見開かれ、その顔からは少しずつ血の気が引いていく。
「部屋に毒が残っていたので、それを――」
「待ってくれ……」
ようやく声を絞り出したカルロに、リリアは静かに視線を戻した。
「……そこから先は、覚えていません」
部屋の中が静まり返る。
カルロの顔からはすっかり血の気が失われている。何かを言おうとしているのか唇が僅かに動いたものの、結局声になることはなかった。
リリアも、そんな彼に何を言えばいいのか分からなかった。それより、青ざめたまま言葉を失っているカルロを見つめているうちに、リリアの中にはこれまでとは別の疑問が浮かんでいた。
自分が死んだことさえ知らなかったカルロが、どうしてそれ以前にナイーゼ家で何が起きていたのかを知っているのだろう。
リリアの死をきっかけに調べたわけではない。それなら一体、どのようにして知ったのか。何より、自分が毒を飲んで一度目の人生を終えた頃、カルロの側では何が起きていたのか。
確かめたかったのは、二人に同じ一度目の記憶があるのかということだった。ところが実際に話してみれば、その記憶には明らかに説明のつかない食い違いがあるのだ。
リリアは青ざめたままのカルロを暫く見つめた後、静かに口を開いた。
「……殿下。一度目で私との婚約を破棄した後、殿下には何があったのですか?」




