第9話 静かな反撃
グレーテの告白から一週間後、旧王国から訃報が届いた。
ハインツ殿下が薨去された。
公式発表は「持病の悪化による」。けれど、真実は違うことを、私は知っていた。刃物による暗殺未遂。その後の継続的な毒の投与。外部の医師を排除された密室での、緩慢な殺害。
回復を許されなかった第二王太子は、五ヶ月の闘病の末に命を落とした。二十五歳だった。窓際に立つのが好きだった人。日差しの中で、いつも何かを考えていた人。
「──殿下」
声に出すと、喉の奥が震えた。
婚約者としての愛情があったかと問われれば、正直にはわからない。政略婚だった。でも、殿下は悪い人ではなかった。窓際で黙って立っていた横顔。何も言わなかったあの沈黙が、今になって違う意味を持ち始めていた。
(もしかしたら殿下は──あの日、何かを言いたかったのではないか。言えなかったのではないか)
姉に逆らえなかったのは、弱さかもしれない。けれど、あの宮廷で孤立した王太子に、どれほどの選択肢があっただろう。父王は姉の母に操られ、宮廷は姉の派閥で固められていた。声を上げれば、命を縮めるだけだったかもしれない。
けれど、もう確かめることはできない。二度と。
ノエルは訃報を聞いたとき、拳を壁に当てた。音は小さかったが、石壁にひびが入った。拳の皮が剥けて、血が滲んでいた。
「……知り合い、だったのですね」
「俺の母方の従弟だ」
初めて明かされた事実に、息を呑んだ。
ノエルはヴァイゼンの巡回官だが、旧王国の王族と血縁がある。だからこそ、暗号文の存在を知っていた。殿下の安否を気にかけていた。辺境で泥まみれになりながら、遠い宮廷の従弟の安否を案じていた。彼が寡黙な理由が、少しだけわかった気がした。語れない事情を抱えている人間は、言葉を選びすぎて、いつしか沈黙を選ぶようになる。
「なぜ、助けに行かなかったのですか」
「行けば外交問題になる。ヴァイゼンの官吏が旧王国の内政に介入したとなれば、密約を盾に開戦の口実を与えることになる。ハインツもそれを望まなかったはずだ」
「だから──証拠を、集めていた」
ノエルは答えなかった。けれど、沈黙が肯定だった。彼は感情で動かない人だ。正当な手段で、正当な証拠で、正当な裁きを。それが彼の選んだ方法だった。
そして、間に合わなかった。
毒殺は歴史上、最も検出が困難な暗殺手段の一つだ。慢性的な微量投与の場合、症状は風邪や持病の悪化と見分けがつかない。古代ローマでは、毒殺が「政治の道具」として日常的に使われ、専門の毒味役が配置されていた。殿下の死因を証明するには、食事の記録と毒物の入手経路を突き止める必要がある。
◇
三日後、ヨハン宰相から密書が届いた。
殿下の死により、旧王国の王位継承問題が表面化したこと。第一王太子は幼少時に病で亡くなっており、第二王太子のハインツが唯一の正統な後継者だった。その死は、王家の直系が途絶えることを意味する。
アンネリースが摂政の地位を狙い、南部の軍を動かし始めたこと。そして──ヴァイゼンが正式に外交問題として旧王国の内政に言及する用意があること。
その密書の最後に、ヨハンはこう書いていた。
「ソフィア殿。あなたの恩師──王宮図書官アルデバラン先生は、私の師でもあった。先生はよく言っていた。『制度は人を守るためにある。制度を私物化する者こそが、国家の敵だ』と。あなたは先生の最後の教え子であり、私は先生の最初の教え子だ。つまり、我々は兄弟弟子ということになる」
文字が滲んだ。──涙だった。
先生。あの日、名刺の裏に書かれた一行の意味が、ようやくわかった。先生が病に倒れたとき、見舞いに行くことすら許されなかった。庶子には、そんな自由もなかった。最後に交わした言葉すら思い出せない。
(先生の教えが、こんなところで繋がるなんて)
先生の最初の教え子が大国の宰相になり、最後の教え子が追放された庶子。立場は天と地ほど違うけれど、教わったことは同じだった。制度は人を守るためにある。記録は事実を守るためにある。
「ソフィア」
ノエルが声をかけた。
「泣いていいぞ」
「泣いていません」
「泣いている」
「……泣いています」
ノエルは何も言わず、私の横に座った。肩と肩が触れた。彼の体温が、服越しに伝わってきた。
彼はそれ以上、何もしなかった。何もしないことが、今の私には最も必要な優しさだった。
涙が止まった後、私は手帳を開いた。殿下の死を、日付とともに記録した。感情ではなく、事実として。
──ここから先は、泣く時間ではない。
翌日、私はノエルに告げた。
「旧王国に戻ります。証拠を持って」
「一人で行く気か」
「いいえ。あなたに、来てほしい」
ノエルは少し目を見開いた。そして、初めて見る笑い方をした。口角がわずかに上がるだけの、不器用な微笑。
「……最初から、そのつもりだ」
旧王国に戻ると決めた夜、グレーテが夕食を作ってくれた。彼女はすでにすべてを告白した後だったが、それでも侍女としての仕事を続けていた。他にできることがないからだ、と彼女は言った。
「せめて、最後まで──」
その言葉を聞いて、私は胸が痛んだ。グレーテにとって、侍女の仕事は私への贖罪の手段でもあったのだろう。
夕食の後、私はヨハン宰相への書簡を書いた。旧王国での行動計画。必要な証拠の一覧。ヴァイゼンの外交使節が動くタイミングの提案。
すべてを記録にまとめる作業は、慣れている。五年間ずっとやってきたことだ。けれど今回は、自分の未来がかかっている。失敗すれば、私だけでなくノエルやオットーにまで危険が及ぶ。
手が震えそうになるのを、深呼吸でこらえた。
(大丈夫。事実がある。記録がある。制度がある)
先生の教えが、背骨になる。
出発の前夜、ノエルが私に一振りの短剣を渡した。
「使い方はわかるか」
「……わかりません」
「なら、持っているだけでいい。いざという時の保険だ」
短剣を受け取ると、思ったより重かった。鞘は使い込まれた革で、刃は手入れが行き届いている。ノエルの私物だろう。
「大切なものでは」
「道具だ。必要な人間が持つべきものだ」
ノエルは振り返らずに出て行った。いつもそうだ。大切なことを言うとき、この人は必ず背中を向ける。
短剣を鞄に入れ、手帳の隣に並べた。記録と武器。この二つを携えて、私は旧王国に戻る。
けれど本当の武器は、短剣でも手帳でもない。五ヶ月間で築いた信頼と、積み上げた証拠だ。
それだけが、権力に対抗できる唯一の力だ。
旧王国に戻ると決めてから、ノエルは地図を広げて経路の検討を始めた。
「正面から入るのは論外だ。アンネリースの息がかかった兵が国境にいる可能性がある」
「では、どの経路で」
「南回りだ。山間部を抜ければ、首都の裏手に出られる。かつて軍が使った間道がある」
ノエルが軍の間道を知っているのは、彼自身がかつて旧王国と関わりのある立場にいたからだ。従弟であるハインツ殿下のために、何年も前から情報を集めていたのだろう。
道中、三日間の行軍になる。食料と水を準備し、目立たない旅装を整えた。グレーテは残ることになった。彼女には、ヨハン宰相への連絡役を務めてもらう。
「ソフィアさま……お気をつけて」
グレーテの声が震えていた。裏切りの後でも、彼女の心配は本物だった。人の心は、一つの色では塗り潰せない。
「行ってきます」
短く言って、馬に乗った。ノエルが手綱を引く。五ヶ月前にこの国に来たとき、馬の乗り方も知らなかった。今は、一人で乗れるようになっていた。
小さな成長だ。けれど、確かな変化だった。
──その言葉が、どれほどの覚悟を含んでいたか。私が本当に理解するのは、もう少し先のことだ。




