第10話 残された椅子
旧王国の首都に足を踏み入れたとき、街の空気が変わっていた。
半年前に去ったときは、まだ活気があった。市場には商人の声が溢れ、通りには馬車が行き交っていた。今は違う。店の半分は戸板を閉め、通りを歩く人々の足取りは重い。子供の笑い声が聞こえない。パン屋の棚は半分が空で、肉屋には行列ができている。
「……ここまで、か」
ノエルが呟いた。
備蓄の枯渇。外交の停滞。典礼の混乱。私が去った後に起きたすべてが、じわじわと国を蝕んでいた。国の崩壊は戦争のように派手ではない。静かに、じわじわと、日常の隅々から色が褪せていく。
私たちは市民に紛れて首都に入り、旧知の文官長オットーに接触した。約束の場所──旧市街の古い酒場。私の顔を見て、泣きそうな顔をした。
「ソフィア殿……来てくれたのか」
「南部の穀物庫の在庫記録を、過去一年分見せてください」
三日後、オットーが持ってきた在庫記録は、私の推測を裏付けていた。手帳の記録と公式記録を照合すると、差異は明白だった。四ヶ月で約三百トンの穀物が消え、流出先は南部の駐屯地。駐屯地の将軍はアンネリースの母方の伯父だった。
私はヨハン宰相に急使を出した。証拠の写しと、密約の法的瑕疵に関する見解を添えて。百五十年前の密約には「両国の王位が正統な継承によって維持されること」という前提条件がある。暗殺による簒奪は、この条件に明白に違反する。
翌日、ヴァイゼンから正式な外交使節が到着した。先頭に立っていたのは、ヨハン宰相その人だった。
アンネリースは、謁見の間で使節を迎えた。私の椅子に座ったまま。背もたれの高さは、まだ合っていなかった。
「ヴァイゼン宰相閣下。何のご用向きで」
「百五十年前の条約に基づき、旧王国の王位継承の正統性について、確認を求めに参りました」
「正統性に疑義はありません。第二王太子は病で崩御されました」
「では、南部の穀物庫から消えた三百トンの穀物と、駐屯軍への横流しについても、ご説明いただけますか」
私が一歩前に出た。半年ぶりに、この謁見の間に立った。
「お姉さま。この記録に、お見覚えはありませんか」
差し出したのは、一覧表だった。すべてが、姉が推薦した管理責任者の在任期間と一致する。
「……お前」
「はい。お前じゃなくても成立する、とおっしゃったお前です」
文官長オットーが王家会議の緊急招集を宣言した。衛兵がアンネリースの側近を拘束する。
「これは──謀反よ!」
「いいえ。手続きです。王家会議の規定に基づく、正当な監査請求です」
◇
王家会議は七日間にわたって開かれた。
アンネリースは最終的に、備蓄横領と王太子暗殺への関与を認めた。証拠が揃いすぎていた。将軍の計画は周到だったが、一つだけ想定外があった。追い出した庶子の妹が、手帳を持って帰ってくることだ。
アンネリースは王族籍を剥奪され、辺境の修道院に幽閉されることが決まった。処刑ではない。彼女もまた、利用された面がある。
最後に謁見の間から連れ出されるとき、アンネリースは私を見た。
「……お前は、最初からわかっていたの」
「いいえ。わかっていたら、もっと早く動けていました」
姉は何か言いかけて、やめた。そして、背を向けて歩いていった。あの日椅子に座って得意げに微笑んでいた姉とは、まるで別人だった。
グレーテの弟は、ヨハン宰相の計らいで南部の駐屯地から解放された。グレーテ自身は涙ながらに許しを請うた。
「あなたは、弟を守ろうとした。それは裏切りかもしれないけれど、愛情でもある」
人を動かすのは、善悪ではなく、守りたいものの重さだ。それを知ったことが、この五ヶ月で最も大きな学びだったかもしれない。
王家会議の閉会後、ヨハン宰相が私を呼んだ。
「ソフィア殿。旧王国から、書記官長への就任を打診されている。受けるかね」
「……お断りします」
「では、ヴァイゼンではどうだ。うちの外交省に、東方古語の専門官が必要だ」
「……お受けします。ただし、辺境の巡回業務と兼任させてください。現場を離れたくないので」
ヨハンは声を出して笑った。
「先生の教え子は、二人とも頑固だな」
──先生。あなたが蒔いた種は、二つの国で芽を出しました。
会議の後、宮廷の廊下でノエルが待っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいる。長い影が石畳に落ちている。
「終わったか」
「終わりました」
ノエルは黙って歩き出した。私も隣を歩いた。いつの間にか、歩幅が合うようになっていた。五ヶ月前、王宮を去るときの歩幅は乱れていた。今は、もう乱れない。
「ノエル」
「何だ」
「ありがとう、と言ったら、また『礼はいらん』って言いますか」
「言う」
「じゃあ、言いません。代わりに」
私は立ち止まり、彼の外套の袖を、指先で軽くつまんだ。黒い布の手触りが、指先に馴染んでいた。
「──これからも、隣を歩いてもいいですか」
ノエルは前を向いたまま、しばらく黙っていた。
そして、不器用に──本当に不器用に──私の手を取った。革手袋越しの、硬い手だった。剣だこと、馬の手綱で荒れた手。
「……最初から、そのつもりだ」
同じ言葉。あのとき、旧王国に戻ると決めた夜に、彼が言った言葉と同じ。けれど今度は、意味が違っていた。
宮廷の廊下を、二人で歩く。足音が二つ、石畳に響いている。
背もたれの高さが合わない椅子は、もう必要ない。私の居場所は、椅子の上ではなく、この人の隣にある。
王家会議の最終日、将軍の供述で明らかになった事実があった。
将軍の計画は十年前から始まっていた。穀物の横流しは、最初はわずかな量からだった。少しずつ、少しずつ増やしていき、気づかれないように。私が書記官として管理を始めた五年前に、初めて計画に支障が出た。私の記録が正確すぎたからだ。
「あの庶子さえいなければ、計画は順調だった」
将軍はそう証言したという。私への怒りではなく、事務的な口調だったと、オットーが教えてくれた。将軍にとって私は人間ではなく、計画の障害物でしかなかった。
それを聞いて、不思議と怒りは湧かなかった。ただ、自分の仕事に意味があったのだと、改めて確認できたことが──少しだけ、嬉しかった。
記録を残すことは、権力への抵抗だった。事実を記録することで、嘘がまかり通るのを防ぐ。先生が教えてくれたことの本当の意味を、十年越しに理解した。
すべてが終わった後、ノエルと二人で首都の門を出た。
門を出る瞬間、半年前の記憶が蘇った。あのときも、この門をくぐった。一人で、革鞄一つを抱えて。振り返らないと決めて。
今日は、振り返った。
王宮の尖塔が、夕暮れの空に浮かんでいる。五年間過ごした場所。苦しかった場所。けれど、すべてが無駄ではなかった場所。
もう、ここに戻ることはない。けれど、ここで学んだことは、これからの私を支え続けるだろう。
「振り返ったな」
ノエルが言った。
「ええ。今日は振り返れます」
「なぜだ」
「もう、崩れないからです」
ノエルは小さく頷いた。そして、黙って歩き始めた。
私もその隣を歩いた。歩幅は、もう完全に合っている。
──窓の外では、知らない国の風が、穏やかに吹いていた。
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