第8話 王冠の毒
グレーテが来て三日が経った。
彼女は以前と変わらず、甲斐甲斐しく私の身の回りを世話してくれた。食事の支度、洗濯、掃除。侍女としての仕事を、異国の辺境でも淡々とこなしている。慣れない薪の竈でも文句一つ言わず、村の井戸から水を汲んで運んだ。朝は誰よりも早く起き、夜は食器を片付けてから眠る。
だからこそ、違和感があった。
(逃げてきた人間にしては、落ち着きすぎている)
命からがら国境を越えたはずの人間が、翌日から家事をこなせるだろうか。恐怖で眠れない夜があってもおかしくないのに、グレーテは毎晩よく眠っている。寝息が規則正しい。本当に怯えている人間の呼吸ではない。
人間の体は、強い恐怖を経験すると、しばらくの間は過覚醒の状態が続く。物音に敏感になり、眠りが浅くなる。それは動物としての防衛本能だ。グレーテにはその兆候がない。
検証するつもりはなかった。信じたかった。けれど、三日目の夕方、偶然が重なった。
グレーテが洗濯物を干しに外へ出た隙に、彼女の旅鞄の口が開いていた。風で蓋が煽られたのだろう。中に、見覚えのある封蝋が見えた。
旧王国の王家紋章──ではない。よく見ると、紋章の下部に小さな百合の意匠がある。これは王家の公式紋章ではなく、アンネリースの個人紋だ。王族の子女は、成人すると王家紋章に個人の意匠を加えた私的な紋章を持つ。姉は百合を選んだ。正妃の子であることの誇りを込めて。
姉の手紙を、グレーテが持っている。しかも、未開封のまま。つまり、渡す相手がいるか、あるいは指示を受け取るためのものだ。
(まだ開けるな。証拠は、崩さない形で残す)
書簡を元の位置に戻し、鞄の口を同じ角度に直した。鞄の紐の結び方まで記憶して、再現した。結び目の輪の大きさ、紐の余り具合。五年間の管理業務で培った観察力が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
手が震えていた。けれど、呼吸は整えた。事実を確認すること。感情は後。
ノエルに報告すると、彼は眉ひとつ動かさなかった。
「予想はしていた。──どうする」
「泳がせます。彼女が何を報告しているのか、何を探っているのか、見極めてから動きます」
「慎重だな」
「慎重にならざるを得ません。彼女は五年間、私の侍女でした」
◇
翌日、私はグレーテに仕事を頼んだ。巡回先の村で使う資材の発注書を、ヴァイゼン語で清書してほしい、と。
グレーテは少し驚いた顔をした。
「私、ヴァイゼン語は読めますが、書くのは得意ではなくて──」
「大丈夫よ。下書きは作ってあるから、写すだけで」
下書きを渡した。本物の発注書だが、末尾に雑談のような形で、意図的に虚偽の情報を一文だけ混ぜてある。「備蓄管理の不整合に関する証拠は、手帳ではなく、ノエルの拠点の地下室にある書簡箱に保管してある」という内容だ。
罠だった。この情報は、グレーテ以外の人間には伝えていない。もしアンネリースの側がこの情報に基づいて動けば、情報源はグレーテしかいない。
情報の漏洩元を特定するために、異なる相手に異なる偽情報を流す手法は、古くから諜報の世界で使われてきた。「カナリアの罠」と呼ばれることもある。炭鉱のカナリアのように、危険を察知するための仕掛けだ。
(こんなこと、したくなかった)
けれど、しなければならなかった。疑うことと、見捨てることは違う。ノエルの言葉が、頭の中で繰り返される。
五日後、結果が出た。
旧王国の宮廷から、ヴァイゼンの外交窓口を通じて、正式な引き渡し要請が届いた。「ソフィアが持ち出した国家機密文書」の返還を求めるという内容。──ただし、要求しているのは手帳ではなく、「書簡箱」だった。
存在しない書簡箱。私が罠の中に書いた、架空の保管場所。
答え合わせは、あまりにも明快だった。
「グレーテ」
私は彼女を呼び、向かい合って座った。テーブルの上に、茶を二杯。彼女がいつも淹れてくれるのと同じ茶を、今日は私が淹れた。
「一つだけ訊いていい?」
「……なんでしょう」
「姉の手紙、いつ届いたの」
グレーテの顔から、血の気が引くのが見えた。唇が開いたが、声は出なかった。目が泳ぎ、そしてうつむいた。
「私の居場所を教えたのは、あなたでしょう。手紙をくれたのも、逃げてきたのも、全部──姉の指示」
沈黙が落ちた。
グレーテの目から涙が溢れたが、否定の言葉は出なかった。
「……ごめんなさい。ソフィアさま、ごめんなさい……」
「理由を聞いてもいい?」
「家族です。弟が兵役で南部の駐屯地にいて──アンネリースさまに、弟の安全と引き換えに協力するよう言われました。断れば弟が前線に送られると」
家族の命を盾にした脅迫。姉のやりそうなことだった。いや──姉の背後にいる将軍のやり口だ。軍を掌握している者にしかできない脅し方。
怒りはあった。けれど、それ以上に、悲しかった。
「グレーテ。あなたの弟のことは、ノエルとヨハン閣下に相談してみる。すぐには約束できないけれど」
「あなたを責めるつもりはないわ。でも、これ以上姉に情報を流すことは、やめてほしい」
グレーテは声を上げて泣いた。テーブルに突っ伏して、肩を震わせて。
私はその背中に手を置きながら、もう一つの事実を噛みしめていた。
(姉は、弟を人質にして侍女を操るほど追い詰められている。つまり──旧王国の崩壊は、もう止められないところまで来ている)
その夜、ノエルが短く言った。
「よく耐えたな」
「耐えたんじゃありません。記録しただけです」
「……記録か」
ノエルは私の隣に立ち、夜空を見上げた。星が多い夜だった。肩が触れるか触れないかの距離。
罠を仕掛けてから結果が出るまでの五日間、私は普段通り仕事をした。巡回先の村で書類を整理し、水路の点検に同行し、村人の相談を聞いた。
何事もないかのように振る舞うのは、思ったよりも難しかった。グレーテが笑いかけてくるたびに、胸が軋んだ。彼女の笑顔は嘘ではない。私への親愛の情も、おそらく本物だ。けれど同時に、彼女は私を裏切っている。
人間は矛盾した存在だ。愛しながら裏切ることもできるし、裏切りながら苦しむこともできる。白か黒かで割り切れるほど、人の心は単純ではない。
罠の結果が出たとき、私は安堵と悲しみを同時に感じた。予測が当たったことへの安堵。そして、予測が当たってしまったことへの悲しみ。
グレーテの裏切りを確認した後、私は一人で外に出た。夜空を見上げる。星が瞬いている。辺境の空は、首都の空より遥かに広い。
五年間信じていた人に裏切られた。その事実は確かに痛い。けれど、グレーテを責めきれない自分がいる。もし私に弟がいて、その命を盾にされたら──私は同じことをしないと言い切れるだろうか。
正義と情愛が衝突するとき、人は必ず引き裂かれる。どちらを選んでも、何かを失う。グレーテは家族を選んだ。それを卑怯と断じることは、私にはできなかった。
戻ると、ノエルがまだ起きていた。テーブルの上に、温かい茶が二杯置いてあった。
「飲むか」
「……ありがとうございます」
いつもと同じ温度の茶だった。その一貫性が、今夜は何よりもありがたかった。




