第8話_会えない夜の過ごし方
菓子店で新しい手順を使い始めて一週間がたったころ、律から、今日の夕食を延期したい、と連絡が来た。
会社では、彼が難しい顔で電話をしているのを見た。そのあと佐伯と会議室へ入り、出てきても目が合わなかった。
帆乃香は、大丈夫ですか、と送ろうとして、消した。自分も、大丈夫と返すためだけにその言葉を使ったことがあった。
延期できます。話したくなったら連絡ください、と返した。
帰宅後、夕飯を食べ終わっても、律からは何も来なかった。帆乃香は携帯電話を裏返し、萩尾から届いた確認事項を翌日のメモへ入れた。仕事の連絡に恋人の話を混ぜたくなかった。
十時過ぎ、ようやく電話が鳴った。
律は、少しだけ話せますか、と言った。帆乃香はソファに座り、いいですよ、と答えた。
「研修の契約が、一件、なくなりました」
声に、昼間は見なかった疲れがあった。
先方の予算が変わった。ほかの会社の案もあった。理由はいくつかあるが、律は、もう少し早く条件を聞けた、と言った。
帆乃香は、瀬尾さんのせいじゃない、と言いかけた。その言葉がほしくても信じられなかった、自分の夜を思い出した。
「佐伯さんとは、話したんですか」
「はい。明日、振り返ります」
「じゃあ、今は、どうしたいですか」
返事までに、間があった。
「今日は、もう、その話はしたくないです」
帆乃香は、分かりました、と言った。窓の外で車が通った。何か楽しい話を用意しなければと思いかけ、それもやめた。
「夕飯、食べました?」
律は食べていなかった。買ってきた弁当があるらしい。帆乃香は、温めてきてください、と言い、彼が電話を置く音を聞いた。
電子レンジの音が遠くで鳴った。戻ってきた律が、何か話して、と言ったので、帆乃香は昼に杏奈と行った店の話をした。注文した麺が思っていたより長く、箸から何度も逃げた。
途中で律が笑った。帆乃香は、少しほっとした。それでも、元気になったかどうかを確かめる質問はしなかった。
食べ終わるころ、律が言った。
「明日、会えますか」
帆乃香は予定表を開いた。仕事のあとには、何も入っていない。
「会えます。待ち合わせ、いつものパン屋でいいですか」
答えると、律が、はい、と言った。
会えない夜を、会えないまま過ごせた。彼が落ち込んだことを自分への拒絶にしなかった。それが、二人の間でできることの一つになった。
◇
翌日の夜、パン屋で会った律は、まだ少し疲れていた。
帆乃香を見ると、肩の力が抜けた。彼女は、今日は甘いパンにしますか、と尋ねた。律はガラスケースを見て、惣菜の載ったパンを選んだ。
「夕飯として、前回を反省しました」
帆乃香は笑い、同じトレーへクリームパンを載せた。
「私は、食べたいので」
席に着くと、律はしばらく窓の外を見ていた。帆乃香は紙袋を開け、パンを半分に割った。クリームが端まで入っていた。
差し出すと、彼は、反省したばかりなんですけど、と言いながら受け取った。
「おいしいですよ」
「知ってます」
律が食べ、帆乃香も食べた。話さなければ埋まらないように思っていた沈黙に、二人分の食事の音があった。
店を出ると、彼が彼女の手を取った。
「今日は、会ってくれてありがとう」
帆乃香は、どういたしまして、と言いかけたが、別の言葉を選んだ。
「私も、会いたかったです」
律は彼女を見た。少しだけ目を細め、指を握り直した。




