第9話_今日、歩きながら決めましょう
月末、帆乃香は萩尾の店へ行った。
律も一緒だったが、今回の説明は帆乃香がすることになっていた。実際に使った記録を確認し、どこが困るかを聞く。最初に用意した質問の横には、変更がなかった日の動きも聞く、と書いてある。
萩尾は店の奥へ二人を案内した。打ち合わせの画面に映っていた作業台は、思ったより低かった。店内にはバターの匂いが満ちていた。
「使ってみて、少し安心できるようにはなりました」
萩尾は記録を見せた。変更のある注文は、以前ほど紙を書き直さなくてよくなった。ただ、電話を受けたあとに入力し忘れたことが一度あったという。
帆乃香はその日の流れを聞いた。誰が電話を取り、いつ作業台へ戻り、どこへメモを置いたか。手順を増やす前に、置いてあるものを見せてもらった。
律が口を挟みかけ、帆乃香と目が合うと、待った。
店主の話が終わってから、帆乃香は提案をした。電話の横のメモ用紙を、注文番号と変更内容を書けるものへ揃えること。入力前と入力後のメモの場所を分けること。これなら、画面へ新しい機能を足す前に試せる。
萩尾は紙を二か所へ置き、これくらいなら続けられそう、と言った。
うまくいくかは、まだ分からなかった。次の確認日を決めた。追加の作業が必要なら、そのとき範囲と費用を相談する。
帰り際、萩尾が小さな袋を渡してくれた。
「お二人でどうぞ。売り物とは分けてある分なので」
律が会社への持ち帰りを確認し、受け取った。袋には焼き菓子が四つ入っていた。
店を出てから、帆乃香は振り返った。窓の奥で萩尾が前掛けを直し、作業台へ戻っている。
すべてを便利にできたわけではない。店の仕事がなくなったわけでもない。けれど、何が変わって、何がまだ残っているのか、聞くことはできた。
「さっき、待ってくれて、ありがとうございました」
歩き出してから言うと、律は袋を持つ手を替えた。
「相良さんが、まだ聞いてたので」
帆乃香は、はい、と答えた。頼まれたからここへ来た。聞くことを考え、説明して、次の予定を決めた。その一連を、今日は自分のしたこととして受け取れた。
◇
四半期の面談で、佐伯は新しい担当を続けるか尋ねた。
売り上げは以前の制作案件ほど大きくない。会社全体も、まだ先の見通しを楽観できる状態ではなかった。帆乃香はそれを聞き、続けたいです、と答えた。
「実装の仕事も、残せるなら、続けたいです。それと、打ち合わせのあと、内容を整理する時間が今の予定だと足りません。最初はそこも取らせてください」
佐伯は予定を確認した。次の一か月は担当件数を抑え、振り返りの時間を確保することになった。
帆乃香は、もう一つ、と言った。
「新しい分野の勉強を、どこまでやれば担当できるのか、目安を一緒に決めたいです。何でも覚えなきゃと思うと、結局、何も進まなくなるので」
佐伯がうなずき、今ある案件から必要なものを選ぼう、と答えた。
会議室を出ると、杏奈が片手を上げた。勉強会で使う見本について、確認してほしいという。
帆乃香は席へ戻り、午後なら、と答えた。今は先に、面談で決まった予定を入れる必要があった。
頼まれたものを全部抱えなければ、自分の席がなくなる。少し前までそう思っていた。今日もその怖さはあったが、杏奈は、じゃあ二時に、と言って、自分の仕事へ戻った。
◇
その週末、帆乃香は参考書の棚を整理した。
もう使っていない本を二冊、古紙の袋へ入れた。最初に買った、背表紙の割れた一冊は残した。使うためではなく、今はまだ、持っていたかった。
机には新しいノートを置いた。最初のページに、工務店で聞き損ねたことを書いた。次のページには、萩尾の店で決めた確認事項がある。
その下へ、図書館で借りる本の名前を書いた。仕事のための本ではなかった。映画を見た日に律が教えてくれた、旅のエッセイだった。
午前中、講座を一本だけ見た。分からない言葉が出たところで止め、調べてノートへ書いた。予定していた時間になると、画面を閉じた。
もっとやらなければ、という気持ちはあった。周りは今も先へ行っている。今日覚えたことも、いつか使わなくなるかもしれない。
それでも、午後の約束を取り消す理由にはしなかった。
◇
駅へ行く途中で、母へメッセージを送った。
最近、仕事が変わって、少し大変だった。来週なら、顔を出せる。
詳しい事情を全部説明するには、まだ時間が必要だった。母もすぐには分からないかもしれない。それでも、予定がある、とだけ返していた画面に、今日は別の言葉を置けた。
律は改札の前で待っていた。大きな鞄を持ち、文庫本を読んでいる。
帆乃香が近づくと、彼は顔を上げた。しおりを挟み、本をしまう。読んでいた場所を急いで閉じたその動きが、嬉しかった。
「待たせました?」
「まだ、約束の五分前です」
律が時計を見せた。帆乃香は隣へ並び、今日はどこへ行くんでしたっけ、と聞いた。
「海まで。途中の店が開いてたら、昼を食べます」
「閉まってたら?」
「別のところを探します」
帆乃香はその答えに笑った。何もかも決まっていない休日を、楽しみにしている自分がいた。
ホームへ上がると、電車が来るまで六分あった。律が隣へ立ち、帆乃香の顔を見た。
「今朝は、どうでした?」
彼は時々そう尋ねる。元気かどうかを、先に答えにしていない聞き方だった。
「勉強してました。少しだけ」
「そうでしたか」
「やっぱり、不安でした。置いていかれる気がして」
律はうなずいた。帆乃香は続けた。
「でも、今日は出かけたかったです。律さんと」
初めて名前で呼んだことに、言ってから気づいた。
彼も気づいたらしく、一瞬、目を見開いた。帆乃香は顔が熱くなり、線路のほうを見た。今まで会社の呼び方を持ち込んでいたのは、距離を変えるのが照れくさかったからだった。
「もう一回、言ってもらっていいですか」
律が言うので、帆乃香は彼を見た。
「次に呼ぶときまで、待ってください」
彼は笑った。少し悔しそうな顔だった。
電車が入ってきた。二人は並んで乗り込み、空いた席へ座った。律が鞄から本を出しかけ、帆乃香と目が合うと、また戻した。
「読まないんですか」
「今は、話したいので」
帆乃香は窓の外を見た。ホームがゆっくり後ろへ流れ、ビルの間から空が広がった。
明日の仕事を、まだ少し怖いと思う。なくなった仕事を惜しむ日もあるだろう。過ごした時間が無駄だったように感じる夜も、これで最後とは言えない。
帆乃香は膝の上に置いた手を開いた。律の手が隣にある。自分から、その指へ触れた。
「次の休みも、会いませんか」
律が彼女の手を握った。
「会いたいです。何をします?」
帆乃香は考え、窓の向こうへ目を戻した。今日の海も、まだ見ていなかった。
「今日、歩きながら決めましょう」
電車は街を抜けていった。帆乃香は彼の手を握り直し、これから見に行くものの話を始めた。
了
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