第7話_本、二冊持っていきます
萩尾の店から返事が来たのは、最初の相談から一か月半たってからだった。
範囲を絞った案で、まず試したいという。律が契約の条件をまとめ、佐伯が確認し、帆乃香は導入の作業を担当することになった。
注文に関する情報を一か所へまとめる。変更は履歴として残し、出荷用に確定した内容と区別する。最初の案より小さく、メールの内容を勝手に読み取って決める機能は入れない。
帆乃香は説明用の見本を作り、店主へ送った。実際の操作をしてもらうと、早速、分からないところが出た。
「確定、を押したあとで、また電話が来たら?」
萩尾の質問に、帆乃香は画面を見た。確定したあとに変更が生じることを、考えていなかったわけではない。だがそのとき、以前の状態がどう見えるかまで、きちんと示していなかった。
作り直した。もう一度、試してもらった。
律は営業時間の調整と、作業の追加範囲を決めた。帆乃香が夜まで残りそうになると、翌日の予定を確認した。
「今日、終わらせる約束ではないですよね」
その言い方が恋人のものではないことに、帆乃香は少し安心した。
会社では、彼は帆乃香の作業を特別扱いしなかった。足りない説明は足りないと言い、見積もりの時間を越えそうなら報告を求めた。帆乃香も、彼の聞き方が曖昧なら、そこを先に確認してほしい、と言った。
仕事の終わりに二人で帰る日は、駅前の小さな橋でその話をやめた。橋を渡ったら、夕飯の話をする。毎回うまく切り替わるわけではなかったが、律が橋の手前で、もう一点だけ、と言うと、帆乃香は笑うようになった。
「あと三点ありますよね」
「今日は本当に一点です」
答える彼の顔を見れば、それが本当か大体分かるようにもなった。
◇
初めて律の部屋へ行った日、帆乃香は玄関で足を止めた。
何をしているの、と律に聞かれ、靴を揃えながら、緊張してます、と答えた。彼も、俺もです、と言った。
部屋は想像していたほど整っていなかった。ソファに洗濯物があり、テーブルの端に郵便物が積まれている。台所には買った長葱の残りが立ててあった。
「片づける時間、ありましたよね」
「ありました。片づけた結果です」
律は洗濯物を別の場所へ運んだ。帆乃香は、その中に靴下の片方しかないものを見つけ、相方は、と尋ねた。
「捜索中です」
笑いながら部屋へ入り、鞄を置いた。
夕飯は、二人で作った。帆乃香が野菜を切り、律が肉を焼く。彼は段取りを考えるのがうまかったが、味つけには慎重すぎて、いつまでも塩を足せなかった。
「もう、少しなら入れていいと思います」
帆乃香が味見のスプーンを渡すと、律は顔をしかめた。
「薄いですね」
「だから、そう言ったんです」
鍋から湯気が上がり、台所の狭さで肩が触れた。律が火を弱め、彼女へ向き直った。
帆乃香はスプーンを流しへ置いた。彼の目が、自分を見ている。仕事の画面を見るときとも、映画の感想を話すときとも違う顔だった。
「キスしてもいいですか」
声が近かった。帆乃香はうなずいてから、言葉でも、はい、と答えた。
唇が触れたのは短い時間だった。律が少し離れ、彼女の反応を見る。帆乃香は彼のシャツの裾をつかんだ。離れてほしくないと分かったのが、触れたあとだった。
二度目は、もう少し長かった。
鍋が静かに音を立てていて、律が先に顔を離した。
「夕飯、危ないですね」
「瀬尾さんが、火を止めてないから」
「そうでした」
彼は慌ててコンロへ向き直った。帆乃香は笑い、その背中へ額を少し当てた。こんな時間を、自分が欲しがっていたとは知らなかった。
◇
食後にソファへ並んで座り、テレビをつけた。画面では、新しいAIサービスを紹介していた。仕事にどう活用するかという特集だった。
帆乃香の体がわずかに固くなった。律がリモコンへ手を伸ばしたが、彼女は、少し待って、と言った。
紹介された機能を見ていると、自分たちの提案も、いつか簡単にできるようになるかもしれないと思った。仕事が見つかれば安心できると思っていたのに、見つかりかけた仕事も、ずっと続くとは限らなかった。
「また、なくなるかもしれないですね」
帆乃香が言うと、律は画面を見たまま、何が、と尋ねた。
「今、やってること」
「変わると思います。どのくらいかは、分からないです」
帆乃香はクッションを抱えた。律の声に、約束できないことを約束しない硬さがあった。
「この前、仕事ができそうって思ったら、少し楽になったんです。でも、まだこんなに怖いんだって」
律はテレビの音を落とした。
「今日は、その話を続けたいですか」
帆乃香は考え、首を振った。
「今日は、やめたいです。分からないことばっかりになりそうだから」
律が番組を変えた。古い旅番組になり、海沿いの食堂が映った。
帆乃香はクッションを下ろし、彼へ寄りかかった。律の腕が、少しためらってから背中へ回る。
怖さは薄まらなかった。けれど、その怖さを抱えたまま、ここにいていいと思えた。
画面の中で、知らない土地の波が寄せていた。行ってみたい、と帆乃香が言うと、律は鞄を指した。
「そのときは、本、二冊持っていきます」
「待たせませんよ」
「電車で読む用です」
帆乃香は、彼の腕の中で笑った。




