第5話_付き合ってほしいと思ってます
翌週の火曜日、佐伯から面談の時間を取られた。
帆乃香は菓子店の調査結果を持っていった。それが進んでいないのは自分だけのせいではない、と分かっていても、契約前の資料はどこか頼りなかった。
佐伯は先に、新しい担当の希望を聞いた。
「調べてみて、どうだった?」
「実装以外にも、確認することはあると思いました。ただ、これで仕事になるかは、まだ分からないです」
「うん。だから、少し試してほしい」
彼は資料を一枚出した。既存の顧客向けに、サイトの運用や注文処理の相談を受ける担当。その補助を、帆乃香にもしてほしいという話だった。最初の一か月は週の半分を使い、保守はほかの担当と分ける。
帆乃香はすぐには答えられなかった。
「技術を使う仕事は、なくなりますか」
「なくならない。ただ、前と同じ量は、もう約束できない」
佐伯はペンを置いた。
「相良さんに、全部を一人でできるようになれとは言ってない。打ち合わせも提案も、最初は誰かとやる。向いていないと分かったら、その理由を見て考える」
逃げる言葉を探した。もっと勉強してから。もう少し調べてから。今は担当している保守もあるから。
そのどれを言っても、来月の予定表に何が入るかは変わらない。
「一か月、やってみます」
佐伯はうなずき、何をできたかだけでなく、どこで止まったかを記録してほしい、と言った。帆乃香は予定表へ最初の打ち合わせを入れた。今度の予定には、相手の名前があった。
◇
その日の帰り、律とは会社の近くで別々に退勤し、駅前のパン屋で待ち合わせた。
職場の人に知られたくないというより、会社で待たれると、彼の時間を仕事で縛っている気がした。帆乃香がそう伝えると、律は、分かりました、と場所を変えてくれた。
店の窓際に座り、帆乃香は紅茶を頼んだ。律はコーヒーと、甘いクリームの挟まったパンを選んだ。
「夕飯、これで大丈夫ですか」
「帰ったら、もう少し食べます」
彼が紙袋を開くのを待って、帆乃香は口を開いた。
「金曜のこと、話してもいいですか」
律はパンをトレーへ戻し、うなずいた。
帆乃香は、仕事がなくなる前から話した。働き始めたとき、何も分からなかったこと。少しずつ作れるようになって、誰かに頼まれるのが嬉しかったこと。家で勉強して、休日も画面を触っていたこと。
思い出を説明すると、自慢をしているように聞こえないか心配になった。けれど律は途中で評価を挟まず、聞いていた。
「AIを使うのが嫌なんじゃないんです。私も使ったし、助かったこともある。でも、自分が好きだったところから先に、なくなっていく気がして」
カップの中の紅茶が、店の照明を映していた。
「それで、みんなは、ほかにできることを見つけてる。私は、自分の好きな仕事だけを大事にして、次のことを考えてなかったのかもしれないです」
律が口を開きかけた。帆乃香はその前に、続けた。
「勉強してきた時間が、全部無駄だったように思う日があるんです。そんなことないって、言ってもらいたくて話してるのかもしれない。でも、言われても、信じられないんです」
店員が入口の札を裏返した。閉店までは、まだ三十分あった。
律はカップを両手で持った。
「俺は、相良さんがどのくらい勉強したか、全部は知らないです。だから、全部役に立つって約束はできない」
帆乃香はうなずいた。怖かった言葉が、予想より静かに入ってきた。
「ただ、萩尾さんとの話で、俺が聞かなかったことを相良さんが聞いた。それは実際にあったので、俺はそこを頼みました」
「でも、あれ、誰でも聞けることじゃないですか」
「俺は、聞けませんでした」
律はそう答え、少し考えた。
「もし別の人も聞けるなら、相良さんが聞いたことまで消えるんですか」
帆乃香はカップから手を離した。
誰かのほうが早い。誰かのほうがうまい。自分が苦労したことを、誰かは簡単にできる。そう思うたび、してきたことまで取り上げられた気がしていた。
その日の打ち合わせで、自分が尋ねたことは消えない。けれど、それだけで生きていけるわけでもない。
「消えないけど、仕事がなくなるのは、変わらないです」
「はい」
律は否定しなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。甘いクリームのパンは、まだ手がつけられていなかった。
「今日、新しい担当を試すことにしました」
帆乃香が言うと、律は少し驚いた顔をした。
「仕事を作れるか分からないし、向いてるかも分からないです。でも、今のまま待ってるのは、もう苦しくて」
「何をするんですか」
話したくないはずだった仕事の内容を、帆乃香は自分から説明した。律は聞いたあと、同じ打ち合わせに入るなら、仕事のところは今までどおりにします、と言った。
「私が駄目でも?」
「止まったら、一緒に理由を見ます。駄目だって先に決めたら、何を直すのか分からないので」
帆乃香は、分かりました、と答えた。
それから、まだ切り分けられていない気持ちがあることに気づいた。
「瀬尾さんは、私の仕事が役に立つから、会ってくれてるんですか」
聞いた瞬間、訊いてはいけないことを訊いた気がした。けれど律は、今度はほとんど迷わなかった。
「それだけなら、土曜に映画へ誘いません」
カップを置く音が、帆乃香の鼓動と重なった。
「俺は相良さんといるのが好きです。話して、笑ってもらえると嬉しい。今日みたいに、分からないことを話してくれるのも、嬉しいです」
彼はそこで一度、息をついた。
「付き合ってほしいと思ってます。今日、返事を決めなくてもいいです」
帆乃香は、すぐに何か言わなければと思って、それから、自分がどうしたいのかを考えた。
仕事ができるようになってから。落ち込まなくなってから。ちゃんとした人間になってから。
その日がいつ来るのか、分からなかった。待っていたら、律を失うことだけは、はっきり想像できた。
「私も、好きです」
声を出すと、胸の奥の硬いものが動いた。
「でも、今みたいなこと、またあるかもしれないです」
「そのときは、話しましょう。俺も、いつもちゃんとはできないので」
律の指がカップの取っ手へ伸び、また戻った。落ち着いているように見えた彼も、手の置き場所に困っていた。
帆乃香は笑いそうになり、目が熱くなった。両方のせいで、うまく顔を上げられなかった。
「はい。付き合いたいです」
律は、よかった、と小さく言った。
閉店十分前になって、彼がようやくパンを食べ始めた。帆乃香は半分もらい、思っていたより甘くて驚いた。
「これ、夕飯ですか」
「選んだときは、そのつもりでした」
笑うと、今度は二人とも、途中で止めなかった。
◇
帰り道、律が手を差し出した。
帆乃香はその手を見てから、指を重ねた。想像していたより温かかった。駅へ向かう人が二人の横を通り過ぎ、歩道の幅が狭くなると、彼が少し前へ出た。手は離れなかった。
仕事の空白も、将来の不安も、全部そのまま残っている。
それでも、彼の手を握る自分の指が、今、どこにあるかは分かった。




