第4話_それ以外まで決めないでください
萩尾の店への提案は、すぐには契約にならなかった。
見積もりを見た店主は、思っていたよりかかりますね、と言った。律は費用の内訳を説明し、作業範囲を減らす案を出した。それでも、その場で返答はもらえなかった。
帆乃香は会議室の画面が暗くなったあと、資料を閉じた。
「高かったですかね」
「店の規模に対して、最初の負担は大きいです。俺も説明の順番を考えます」
律は淡々と答えた。帆乃香は、自分がもっと簡単な方法を見つければ、と言いかけたが、彼が費用の欄を指した。
「作業の時間までなくして見積もるのは、違うと思います」
できることが見つかっても、誰かが買うとは限らない。その当たり前が、今までより鋭く感じられた。
席へ戻ると、隣の杏奈が、来月から顧客の勉強会へ同席することになった、と話していた。磯田が、じゃあ資料の一部をお願い、と返している。
帆乃香も、よかったね、と言った。
そのとき杏奈が、相良さんもどうですか、とこちらを向いた。
「まだ一緒にできますよ。私、最初、全然分からなかったし」
善意だと分かっていた。杏奈は本当に、ひとりで進むつもりではなかった。
だが、まだ、という二文字が、帆乃香の耳に残った。
「考えてみる。ありがとう」
そう答えて、昼休みになる前にトイレへ行った。
個室の鍵を閉めると、目の奥が痛くなった。杏奈が自分を見下しているわけではない。彼女が努力したのを知っているし、何度も資料を直していたことも見ている。
自分が苦しいからといって、彼女の前進を悪いものにしたくなかった。
それでも、追いつかないと、という言葉だけが頭を回った。歩いているみんなの後ろで、自分だけ靴ひもをほどいて座っているようだった。
携帯電話に母からメッセージが来た。親戚の結婚が決まったらしい。今週の日曜、実家に顔を出さないか、とあった。
帆乃香は、予定がある、と返した。日曜の予定はなかった。
◇
金曜の夜、律と夕食を食べる約束をしていた。
待ち合わせた店は、駅の向こう側の小さな洋食屋だった。律が先に予約してくれていて、奥の席には二人分の水が用意されていた。
帆乃香はハンバーグを注文した。律はオムライスにした。仕事の話をしない約束は、今日はしていなかったが、できれば楽しい話をしたかった。
ところが、注文を終えた律の携帯電話が震えた。
仕事先かららしかった。彼は断ってから画面を確認し、短く返信した。帆乃香は、皿の来る場所を空けようと鞄を置き直した。
「すみません。来週の研修の確認でした」
「もう、研修もやってるんですね」
「磯田さんとです。先方の要望を聞くのが俺の担当なので」
帆乃香は水を飲んだ。聞かなければいいのに、どんな要望か尋ねた。
律は、社内で生成した資料をそのまま顧客へ出していいのか、確認する人をどう決めるか、という相談だと説明した。会社の中でも、そういう支援を新しい商品にしようとしている。
「便利なものが増えても、運用を決める仕事は残るんですよね」
彼は何気なく言ったのだと思う。
帆乃香には、残る仕事を見つけられない自分が、そこで名指しされたように聞こえた。
「分かってます」
声が固くなった。律が顔を上げた。
「何を?」
「そういう仕事に移らないといけないことは、分かってます」
帆乃香はグラスを置いた。水滴が指についたまま、ナプキンを触れなかった。
「みんなできてるし、瀬尾さんも、来たばっかりでできてる。私もやればいいっていうのは分かってるんです。ただ、まだできないから」
律はすぐに言い返さなかった。隣の席で、スプーンが皿に当たる音がした。
「相良さんに移れと言ったつもりはないです」
「でも、そういう話でしょう」
言ってから、彼の表情を見た。少し困っていて、少し傷ついていた。
帆乃香は視線を落とした。楽しい夕食にしたかった。選んだ店を嬉しく思っていた。なのに、相手の言葉を、自分が一番嫌な形へ変えてしまった。
「……すみません。今の、嫌な言い方でした」
律は息を吐いて、携帯電話を鞄へしまった。
「仕事の話をした俺も、気づいてなかったと思います。ただ、俺の考えてないことまで、考えたことにされると、何を話したらいいか分からなくなる」
帆乃香はうなずいた。彼の言ったことは、正しかった。
「気をつけます」
「全部気をつけて、何も言わなくなるのも、困ります」
そのとき料理が運ばれてきた。店員にありがとうございます、と言う自分の声が、妙に明るかった。
食べている間、二人は映画館で見た予告編の話をした。律は会話を続けてくれたし、帆乃香も答えた。けれど温かいはずのハンバーグの味は、ほとんど分からなかった。
◇
店を出ると、風が冷たかった。
律は駅へ向かう前に、帆乃香へ顔を向けた。
「次、会うのが嫌になりました?」
帆乃香は首を振った。急いで振りすぎて、髪が頬にかかった。
「嫌じゃないです。私が、嫌にさせたんだと思います」
律はしばらく黙っていた。それから、人が通れるように歩道の端へ寄った。
「嫌だと思ったことは言いました。だから、それ以外まで決めないでください」
彼が怒りを飲み込んで全部許してくれる人ではないことを、帆乃香は初めて知った。今までなら怖かったはずなのに、今日は、その言葉を覚えておきたかった。
「……また、会いたいです」
声が小さくなった。それでも彼は聞き返さなかった。
「俺も、会いたいです。今日は、このまま帰りましょう」
ホームまで一緒に行き、別れた。帆乃香は電車の窓へ映る自分を見た。化粧が少し落ちていた。どうしてこんな顔で会ってしまったのかと思ったあと、こんな顔になる日は、これからもあるのだろうと思った。
その日は、帰宅しても講座を開かなかった。冷蔵庫から水を出し、ソファに座って、律へメッセージを書いた。
仕事の話になると、自分を責められている気がしてしまいます。今日言われたこととは別だと分かっています。うまく話せなくてすみません。
返事を急いでほしい気持ちを抑えて、送った。
十五分ほどして、返ってきた。
教えてくれてありがとうございます。次に会ったとき、聞いてもいいですか。話したくないところは、そう言ってください。
帆乃香は返事を読み、声を出さずに泣いた。許されたからではなかった。まだ話せることが、残っていた。




