第3話_その色、似合ってます
菓子店の店主、萩尾は、オンラインの打ち合わせに五分遅れて入ってきた。
画面の向こうには作業台と、透明な箱に入った焼き菓子が見えた。すみません、発送してました、と萩尾は前掛けのひもを直す。帆乃香は用意した質問を手元に置き、律の隣で話を聞いた。
注文確認のメールは自動で送られる。代金もサイト上で決済される。帆乃香が確認すると、萩尾は、それは問題ないんです、と答えた。
「贈り物が多いんですよ。お届け先は別、送り主の名前はこうしてください、メッセージはこれで。そういうのがメールで来るんです」
最初は備考欄の情報が、その後はメールのやり取りが表示された。送り先の変更。熨斗の追加。到着日の相談。注文番号のない問い合わせもある。
帆乃香は、フォームを増やせばいいのか、と考えた。だが萩尾が続けた話を聞いて、質問を変えた。
「発送する前に、最後に決まった内容は、どこで確認されていますか」
「メールを見ながら、紙に書いてます」
画面へ差し出された伝票には、何本も線が引かれていた。赤い文字で、変更後、と書かれている。
「これが、一番大変なんですか」
帆乃香が尋ねると、萩尾は紙を下ろした。
「大変なのは、間違ってないか、何度も見直すことですね。母の日に別のお名前を入れたらと思うと。サイトが立派でも、届いた箱が違ったら意味ないですから」
帆乃香は質問の欄から顔を上げた。聞くべきなのは、どんな機能がほしいかだと思っていた。萩尾は、一晩に何回もメールを開き直す話をしている。
律が出荷までの手順を尋ね、帆乃香が途中で確認を挟む。一件の注文を例に、どの時点で何が変わるのかを追った。終わるころには、用意した質問より、余白に書いた文字のほうが多くなっていた。
打ち合わせを終えると、律は椅子の背にもたれた。
「最初、問い合わせに自動で返答したいのかと思ってました」
帆乃香はメモを見返した。
「返答が早くても、変更がどこにまとまるか決まってないと、確認は減らなさそうです」
「相良さん、そこから聞いてましたよね」
「紙に書くって言ってたので。そこまでの画面はできてるのに、最後だけ手作業なのが気になって」
律はノートの一行に下線を引いた。
「これ、提案の中心にできますね」
褒められたのかどうか分からなかった。ただ、帆乃香の言葉を彼が持ち帰ろうとしていることは分かった。
その日の夕方、律から整理したメモが届いた。帆乃香の名前は、同席者の欄にあった。提案書を完成させるのは律で、採算を決めるのは佐伯だ。帆乃香に頼まれたのは、方法の候補を調べる二時間分の作業だった。
それでも、二時間の先が初めて少し見えた。
◇
調べてみると、注文の情報を整理できる既存の道具はいくつもあった。全部を自分で作る必要はなかったし、萩尾の使っているサービスにも、見落とされていた機能があった。
帆乃香は三つの候補を並べ、それぞれ試した。ひとつは希望する運用に合わず、ひとつは月額が高い。残った案は、注文情報を表へ出し、変更を記録する仕組みを足すものだった。ただし、メールに届く内容を自動で確定するわけにはいかない。誰が見て、どこまで確認するかを決めなければならなかった。
自分の作った画面は一つもない。
調査結果を送ると、律から、助かりました、と返ってきた。帆乃香は嬉しくなり、すぐに、その程度で喜んでいる自分を恥ずかしく思った。
七年かけて、たったこれだけ。
画面を閉じる前、律から次のメッセージが来た。
土曜の午後、映画を見に行きませんか。
会社のチャットに書かれたその一文が、ほかの文字から浮いて見えた。
帆乃香は何度も読み、相手を間違えていないか名前を確認した。すぐ下に、仕事の話はしません、と続いた。
今度は、先に釘を刺されたらしい。
どの映画ですか、と返すまでに、十分かかった。
◇
土曜日、帆乃香は待ち合わせの駅へ二十分早く着いた。
仕事用ではない服を選ぶのに時間がかかった。新しいものを買おうか迷い、結局、去年友人の結婚式の二次会に着ていった、淡い緑のブラウスにした。普段より髪を丁寧に整えたことを、律が気づくか考えてから、気づいてほしいと思っている自分に戸惑った。
彼は約束の十分前に来た。紺色のシャツの袖を折り、休日なのに大きな鞄を持っていた。
「早かったですね」
帆乃香が言うと、律は鞄から文庫本を少し出して見せた。
「待ったら読むつもりでした」
「私が遅れても?」
「遅れる予定があるなら、先に教えてください。長い本に変えます」
帆乃香は笑いながら、約束どおり来ます、と答えた。
映画は、古い商店街を舞台にした群像劇だった。事件らしい事件はあまり起こらず、登場人物たちが店を閉めたり、別の仕事を始めたり、昔の知り合いと再会したりする。何を見ても仕事を連想してしまうのではと不安だったが、途中から、主人公が隣人とつまらないことで言い合う場面に夢中になった。
上映後、カフェで律は意外な感想を言った。
「あの二人、途中から話の内容、どうでもよくなってましたね」
「看板の色を決めるところ?」
「はい。会いたいから揉めてる」
帆乃香はカップの縁を指でなぞった。映画の話なのに、彼の顔が見られなくなった。
「遠回りですよね」
「相手が何を思ってるか分からないので」
律はそこまで言って、席の横に立てていた鞄を直した。文庫本がのぞいている。帆乃香は、待ち時間のためだけにこんなに大きな鞄を持ってきたのかと思い、何が入っているのか尋ねた。
折り畳み傘、水筒、買い物袋、それに本が二冊。律は順番に答え、最後だけ少し声を落とした。
「一冊は、合わなかったとき用です」
仕事では迷わないように見える彼が、読む本さえ決めきれずに来たことが可笑しかった。帆乃香は、自分が服を選び直したことを話した。
「その色、似合ってます」
間を置かずに言われて、笑いを止めることができなかった。止めたら、顔が熱いと分かりそうだった。
「そういうの、さらっと言うんですね」
「今のは、言おうか、駅からずっと迷ってました」
今度は律がコーヒーを飲んだ。耳のところが少し赤い。
帆乃香は、映画の登場人物を遠回りだと言ったことを、取り消したくなった。
◇
帰りは一駅分歩いた。大通りから外れると、道沿いに小さな公園があり、子供たちが噴水の周りを走っていた。律は自動販売機で飲み物を買い、帆乃香に選んでもらってから、残ったほうを持った。
「次は、先にどっちがいいか言ってください」
帆乃香が麦茶のボトルを振ると、律は無糖の紅茶を見た。
「どっちでもよかったので」
「私もどっちでもよかったです」
「じゃあ、今日はこれで」
些細な会話に、終わりたくないと思った。
仕事の話はしない、という約束は守られていた。大学時代の話、苦手な食べ物、実家の近所にある坂の話、最近読んだ旅のエッセイの話。律は、休日に何をしているのかという質問にも、急いで立派な答えを作らなかった。
その隣なら、帆乃香も、最近はあまり何もできていない、と言えた。
「前はもっと、いろいろしてたんですけど」
「今、一緒に映画見ましたよ」
律が言ったのは、それだけだった。十分です、とも、元気を出して、とも続けなかった。
駅で別れたあと、帆乃香は彼から教えてもらった連絡先を開いた。今日はありがとうございました、と送り、しばらくして、自分の送った文を読み直した。
礼儀正しすぎて、何も残らない。
帆乃香はもう一文、足した。
また会いたいです。
送信を押す前に、ホームに電車が入ってきた。乗り込んでも、画面はそのままだった。ドアが閉まるとき、ようやく押した。
次の駅に着くころ、俺もです、と返ってきた。




