第2話_仕事を頼むためじゃないので
水曜日の午後、帆乃香は佐伯と小会議室で向かい合った。
テーブルには、今後の担当を検討するためのシートが置かれている。得意なこと。興味のある分野。身につけたい知識。三つの欄のうち、最初だけが埋まっていた。
佐伯はそれを見て、椅子に座り直した。
「実装を続けたい?」
「できれば」
答えたあとで、帆乃香は、できれば、を取り消したくなった。続けたいと言い切る勇気も、違う仕事をしたいと言う理由もなかった。
「ただ、今のままでは難しいことは分かってます」
佐伯はすぐに慰めなかった。制作の受注が戻ると約束してくれないことが、少しありがたく、同じだけ苦しかった。
「今ある保守は引き続きお願いする。でも、それだけで一人分の仕事にはならない。新しい担当を考える時間も、業務として取ってほしい」
「何をしたらいいでしょうか」
口にした瞬間、帆乃香は自分を情けなく思った。新人のころなら当然の質問だった。七年働いて、その間に何度も誰かへ答えてきたのに、今は自分のことになると、全部を上司に預けたくなる。
佐伯はシートの二つ目の欄を指した。
「具体的な候補が出ないなら、まず何が嫌なのかでもいい」
興味のある分野、と印刷された文字の下へ、帆乃香はペンを置いた。
客の前で話すのは苦手だ。抽象的な提案は、正解が分からない。売り上げを増やすと言いながら、根拠のない数字を出すのが怖い。思いつくものはあったが、書けば書くほど働ける場所が減る気がした。
「少し、考えます」
佐伯は期限を決めた。まず二週間。週に六時間は調査や試作に使ってよく、進まなければ途中で相談する。会議室を出ると、帆乃香の予定表には、調査、という予定が入った。
空白が埋まったことより、それを埋める中身がないことのほうが目立った。
◇
その夜、帆乃香はクローゼットの下段から、古い参考書を取り出した。
引っ越しのたびに減らそうと思って、結局全部持ってきた本だった。端に付箋が残り、シャープペンシルの書き込みがある。最初の一冊は、紙の厚みで背表紙が割れていた。
あのころの自分には、何をすればよいか分かっていた。分からないことを調べれば、一つ分かる。できなかったものを作れれば、昨日より進んでいる。
今は勉強しても、その先に自分の席があるか分からない。
通販サイトで買った新しい講座のページを開いた。三本目の動画を再生すると、講師が、これまでの常識を捨ててください、と笑った。
帆乃香は音を止めた。
捨てるべきものに、自分の夜が含まれている気がした。友達からの誘いを断り、眠い目で文字を追い、分からなくて泣きそうになりながら、どうにか身につけたものだった。
役に立つ部分は残る、と人は言う。
その残る部分だけを手に持って、どこへ行けばいいのだろう。
参考書を一冊、古紙の袋へ入れた。袋の底にぶつかった音が、思ったより大きかった。帆乃香はしばらく動けず、結局それを取り出した。
夕飯にするつもりだった冷凍のご飯は、電子レンジの中で冷めていた。
◇
翌日の昼、律から短いメッセージが来た。
近くの定食屋に行きます。よければ一緒に。
帆乃香は、自席で食べるために買ってきたパンを見た。昼休みまで誰かの邪魔をするのはよくない、といつも思っていた。それなのに誘われると、パンが逃げる理由に見えた。
今日は持ってきているので、と打ちかけ、消した。
行きます、と返した。
定食屋は、古い建物の二階にあった。階段に焼き魚の匂いが漂い、席に着くと小さな湯飲みが出された。律は日替わりを頼んだ。帆乃香も同じものにしたあと、魚が何かを聞き忘れたことに気づいた。
「ここ、よく来るんですか」
「二回目です。前回は階段で、財布を忘れたことに気づきました」
帆乃香は湯飲みを持ち上げる途中で止まった。
「じゃあ、食べるのは初めて?」
「そうです。よく来る店みたいな顔をしてすみません」
笑いがこぼれ、昨日から詰まっていた喉が、少し開いた。
運ばれてきた鯖の皮が、箸の先でぱり、と割れた。律は小鉢の大根を見て、やっぱりここにしてよかった、と言った。思いのほか食事を楽しむ人なのだと分かった。
帆乃香もご飯をひと口食べた。温かいものをちゃんと味わったのが、久しぶりに思えた。
「相良さん、今週、保守以外は何を見てます?」
問いかけは自然だったが、帆乃香の箸は止まった。
「調べものです。まだ、何をやるか決まってなくて」
「そうでしたか。もし興味があればなんですけど、顧客から来た相談を、明日、一緒に整理してもらえませんか」
律が説明したのは、通販を始めた小さな菓子店のことだった。サイトは別のサービスで作っていて、会社に頼む予定はない。しかし注文後のやり取りが増え、店主が困っている。
「新しいサイトを作る話ではないです。だから、俺も、何を頼まれてるのか切り分けたい」
帆乃香は鯖の骨を皿の端に寄せた。切り分ける、と言われれば、少し分かる気がした。
「私でいいんですか」
「分からない部分があるので、実装の経験がある人に聞きたいです。相良さんが無理なら、佐伯さんに別の人を相談します」
必要とされることが嬉しかった。けれど、無理なら別の人、という言葉が同じ場所を刺した。
帆乃香はその小さな傷を隠し、明日の午後なら、と答えた。
昼休みの終わり、会社へ戻る階段で、律が立ち止まった。
「さっきの話、佐伯さんに時間を確認します。昼に誘ったのは仕事を頼むためじゃないので、そこは分けておいてください」
帆乃香は二段下で顔を上げた。
「どうして誘ったんですか」
律は少し困ったように、手すりへ指を置いた。
「月曜、一緒に歩いたのが楽しかったので」
帆乃香は返事を探しているうちに、先に歩き始めてしまった。背中が熱くなった。
仕事があるから誘われたのだと思っていた。そうでなければ、自分から渡せるものがないと思っていた。
席に戻ると、食べなかったパンが机の引き出しにあった。夕方のおやつにしよう、と考えた自分に、少し驚いた。




