第1話_駅まで、歩きます?
月曜日の朝、相良帆乃香の予定表には、午後三時からの定例会議しか入っていなかった。
それでも九時前に出社して、パソコンを起動した。机の左隅にマグカップを置き、髪を耳にかけ、制作管理の画面を開く。昨日と同じ、割り当てなし、という表示が出た。
隣では、後輩の三浦杏奈がヘッドセットをつけている。画面には見慣れない図が並んでいた。顧客がサイトに訪れてから問い合わせるまでの動きを、色違いの線で整理しているらしい。半年前まで杏奈は帆乃香に、文字が中央に揃わない理由を尋ねていた。
今は、その理由を尋ねる人がいない。
十時を過ぎると、制作チームのチャットに新しい試作品が投稿された。郊外の結婚式場の紹介サイトだった。白い背景を薄桃色の花びらが横切り、写真の上に細い文字が浮かぶ。スマートフォンの画面でも崩れず、予約ボタンまで備わっていた。
担当者のコメントには、生成から修正まで四十分、と書かれている。
帆乃香はリンクを開き、一番下までスクロールした。自分だったら、と頭の中で作業を分解する。画像を切り出す。余白を測る。画面幅に合わせて配置を変える。フォームの確認画面を作る。表示を確かめる。
もう一度、四十分、という文字を見た。
横から杏奈が椅子を寄せてきた。
「相良さん、今日、これ触ります?」
帆乃香は反射的に背筋を伸ばした。何か直してほしいのかと思った。
「うん。どの部分?」
「いえ、私、午後から別の打ち合わせなんで。気になるところがあればコメントお願いできるかなって」
杏奈は忙しそうに笑って、自分の画面へ戻った。頼まれたのは仕事だった。確かにそうだったのに、帆乃香は嬉しさを受け取り損ねた。
気になるところを探す。予約フォームの項目名が小さすぎる。写真に重なる文章が読みにくい。細かな指摘を五つ書いたあと、六つ目を消した。
これを全部直してもらったら、完成する。
その次に自分がすることは、まだない。
◇
帆乃香は二十九歳で、株式会社トワ制作室に入って七年になる。
新卒のころは、見本どおりに組んだはずの画面が、ブラウザによってずれる理由も分からなかった。帰宅後に参考書を開き、週末には小さなサイトを一つずつ作った。深夜、ようやく思った場所にボタンが収まったとき、画面の中に自分の指が届いたような気がした。
四年目には実装の主担当になった。難しい動きのあるページも、古いサイトの改修も任された。誰かが困ると、相良さんなら分かるかもしれない、と声がかかった。
それが嫌だった日もある。昼休みにまで呼ばれ、調べている最中に別件を積まれて、私が三人いたらいいのに、と杏奈にこぼしたこともある。
今なら三人どころか、一人でも多いのかもしれなかった。
会社が制作工程に生成AIを本格導入したのは、去年の秋だった。最初は、手間のかかる下書きが減るだけだと説明された。実際、初めの数か月は仕事が楽になった。単純なコードを出してもらい、帆乃香が確認して使う。残業が減り、帰りにスーパーへ寄れる日が増えた。
ところが春になるころ、制作そのものの発注が減り始めた。長く付き合っていた顧客が、社内で作ったページを持ち込むようになった。外から頼まれる仕事も、以前ほどの金額では受けられない。会社は新しい売り方を探し、制作以外の支援を増やしている。
デザイナーの磯田は、顧客の社内研修を担当するようになった。杏奈は利用者の行動を調べ、改善案を出している。帆乃香と同じ実装担当だった先輩は、複数のサービスをつなぐ仕組みを試していた。
朝礼で新しい案件の話が出るたび、帆乃香は笑ってうなずいた。すごいですね、と言った。誰の仕事も順調というわけではないと知っていたが、少なくともみんな、何かに手をつけている。
帆乃香の予定表には、空白があった。
◇
定例会議で、上司の佐伯は次の四半期の方針を説明した。売り上げのグラフには、見なくても知っている下降線が引かれていた。
「制作だけでは厳しい。これは個人の能力の話じゃないです。会社として、継続して頼んでもらえる仕事を作る必要がある」
帆乃香はノートに、継続、と書いた。そこから先の言葉が出てこなかった。
担当を変えたい人、挑戦したい領域がある人は個別に相談してほしい、と佐伯は続けた。誰も今すぐ答えなくていい。けれど、その場で磯田が手を挙げ、杏奈が補足し、話は自然に進んでいった。
帆乃香はペンのキャップを閉めた。
会議の終わりに、営業企画の瀬尾律が一つ質問をした。
「空いた時間を新しい仕事に使うとして、研修や試作に何時間まで充てていいですか。案件がある人とない人で、評価の扱いも先に決めてほしいです」
佐伯が口を閉じ、考える顔になった。
律は三十一歳で、今年の二月に中途入社した。声を大きくすることは少ないが、打ち合わせで曖昧なまま残った箇所を拾う。帆乃香はそれを、冷たい人のすることだと思っていた。誰かの説明に穴を見つけるのが仕事なのだろう、と。
けれど今日は、穴の底に自分がいる気がした。
「そのあたりは、今週中に整理する」
佐伯の返答を聞いて、律は手元に何か書いた。帆乃香もノートを開き直したが、会議はもう終わっていた。
◇
退勤時刻になっても、帆乃香は席を立てなかった。
誰より先に帰ると、今日することがなかったのを自分で認めてしまう。そんな理由で残っていることを、誰かに知られるのはもっと嫌だった。
画面には、午後に開いた技術記事が残っている。新しい道具を覚えるべきだと分かっていた。けれど紹介されるものは次々変わり、途中まで読んだ解説の下に、すでに旧版です、という注記があった。
机の向こうから、律が声をかけてきた。
「相良さん、これ、今日中に確認しないといけないものですか」
彼の指先に、帆乃香が午前中に書いたコメントが表示されていた。
「その試作品? 今日中じゃなくて大丈夫です」
「では、明日、三浦さんに確認します。ありがとうございました」
律は画面を閉じた。帆乃香がまた記事に目を落とすと、帰る支度をしながら言った。
「駅まで、歩きます?」
誘われた理由が分からず、帆乃香は少し身構えた。個別相談の前に、営業からも何か言われるのかもしれない。
「何か、お話ですか」
「特には。これから雨が降るらしいので、駅までなら傘を使わずに済むかと思って」
窓の外を見ると、低い雲がビルにかかっていた。帆乃香は天気予報を見ていなかったし、傘も持ってきていなかった。
帰る理由を一つもらったことにして、パソコンを落とした。
◇
会社から駅まで、十五分ほどかかる。
律は帆乃香の半歩先を歩き、細い路地で自転車が来ると後ろへ下がった。街路樹の葉が乾いた音を立てている。会話をしなければいけないと思うほど、何も浮かばなくなった。
「今日の質問、ありがとうございました」
ようやく言えたのは、駅が見えてからだった。
律は振り向いた。
「評価の話ですか」
「はい。そこまで考えてなかったので」
考えていなかったのではなく、聞いたら怖かったのだが、そこまでは言わなかった。律は交差点の信号を見上げた。
「俺も、確認したいことだったので。新しい提案って、売れるまで時間がかかりますし」
そう言われて、帆乃香は初めて彼にも空白があることを思った。会社での律はいつも、誰かと話しているか、資料を作っていた。それがどこへつながるかまでは知らなかった。
「営業の人は、次の仕事が見えてるのかと思ってました」
「見えてたら、今日、グラフの話を聞きながら胃が痛くなってません」
あまりに淡々と言うので、帆乃香は笑ってしまった。律は驚いたように彼女を見てから、わずかに口元を緩めた。
信号が青になった。改札の前で別れるとき、頬に最初の雨粒が落ちた。
「間に合いましたね」
帆乃香が言うと、律は空を見た。
「ぎりぎりでした」
電車に乗ってから、帆乃香は何度も予定表を確認した。明日も空白だった。けれど、今日の最後の十五分まで、空白だったわけではなかった。




