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悪役令嬢、傷む

多少、痛い描写があります。ご注意下さい。

 わたくしは、下賎な者達を高い建物から見下ろしていた。


 緑と紫の毛並みをした小さな魔物が、わたくしの命令によって、この地を崩壊させている。戸惑う人達、死んでゆく命を見ると、淀んだ心が少しだけ薄れていく気がした。


 暗い雲で覆われたこの場所は、わたくしの中に入った卑しい者の元いた世界を模倣しているらしい。


 四角い形の、奇怪な高い建物が立ち並び、緑が驚くほど少ない。タイヤのついた乗り物も金属でできた無機質のもので、何が楽しくてこんな形にしたものか全く理解できない。


 そんな世界が、魔物の炎や爆撃によって壊れていくのも、気が晴れる気持ちになった。


「ふふふ。もっとーーーもっと激しく燃やしなさい。もっと殺しなさい。ーーー二度と、わたくしに向かって侮る平民が現れないように」


 高貴なわたくしに、下々の者が気軽に話しかけるなんてことが、あってはならない。

 わたくしと同じ目線で会話するなど、もっての他。王族とわたくしの家族以外は、わたくしを敬い、かしずくのが当たり前であって、それよりも頭をあげるのは不敬。ーーーなぜそれがわからないのか、不思議だった。


「教育が足りないのね」

 理由を思い至る。

 わたくしは皇后になるために小さい頃から教育を受けてきたから知っている。でも下賎な者は、教育を受けることもないから、当たり前の事を知らないのだ。

 文字を読めず、知識が少ない。

「ーーーこれではいけませんわね。わたくしが皇后になったあかつきには、下賎な者でも教育が受けれるようにしなければ」

 考えると、良いアイデアだと思った。


「まずは地位と自分の立場を理解する教育ですわね。平民は人間ではないのですもの。息をするだけで罪なのだから、服なども必要ございませんわ。材料の無駄というもの。卑しい存在のくせに数ばかり増えて。本当に害虫と一緒ですわね。平民には大切なところだけ隠すようにして、地を這って歩くように法を変えましょう」


 アイデアは次々に浮かんでいく。

 わかってはおりましたが、わたくしは天才なのでしょう。きっと、アラン殿下にも必要とされる良い皇后になれるに違いありません。

 そう思った。


 アラン殿下は、ケリー先生とともに、魔物に対抗して戦っている。綺麗なお顔に血を流して。

「あの魔物を後で叱らなければなりませんね。アラン殿下の貴重なお顔に傷を作るなど」


 それにしても、下々の者を守ろうとして戦うアラン殿下は、とても素敵だった。自分の身を省みず、王としての国民を庇う行為には涙なしには語られないだろう。

 光に透けそうな金色の髪は汗に濡れ、苦痛に堪えるその表情は色気さえ感じる。

「……本当にアラン殿下はお美しいこと」

 

 見惚れて、わたくしが高揚した身体を静めるために息を吐くと、急に二人の姿がわたくしの目の前に現れた。


 その人物を尻目に見て、つい眉間に皺が寄る。


 ジルお兄様と、穢らわしい聖女だった。

 桃色の髪の女は一番に殺すように命令したのに、まだ生きているなんて。本当にあとで魔物を叱咤する必要がありそうだ。なんなら、足の一本でも斬ってしまおうか。


「あら。のこのこと、よくここまで来れましたわね」

 わたくしが言うと、お兄様ではなく下賎な者がわたくしに声をかけてきた。

「リーネさん。もう止めましょう」

 高貴な人間に、平民が許可もなく声をかけていいはずがない。ジルお兄様の横に立つだけでも無礼で斬首ものなのに、わたくしに声をかけてくるとは。

 本当に、ちゃんとした教育を受けていない人間は、虫けら以下だと痛感する。

 わたくしはその言葉を無視して、生温い風に吹かれた長い髪を後ろに流した。


「リーネ」

 今度はジルお兄様がわたくしを呼ぶ。

 ジルお兄様はわたくしよりも上の立場。

 わたくしはちゃんと教えの通り、礼儀を重んじる。

「何ですか、ジルお兄様」

 返事をしたわたくしに、ジルお兄様は哀しそうな顔をしてみせた。

「もう止めないか。リーネがこんなことをして、何になるというんだ。リーネは自分では何もできないだろう。身の回りをしてくれる人がいて、食べ物を出してくれる人がいて、はじめてリーネはこうして過ごせているんだ。このままではリーネ以外に誰もいなくなってしまう。そうしたら、リーネは……」


 何を当たり前のことを。

 そんなこと、ちゃんと理解しているというのに。

 ジルお兄様は、わたくしを馬鹿にしているのだろうか。人がいないとわたくしは生きられない。そんなことわかっている。

 でもここの人達が皆死んだとして、他に人がいなくなるか。そんなの「否」だ。人は腐るほどいる。

 それでも、『誰もいなくなる』という言葉に、わたくしは反応してしまった。

 わたくしの周りに、「人」はいなかった。人の形をして、顔色ばかり伺う道具ばかり。


「わたくしの周りには、元々、誰もおりませんでしたわ」

 わたくしはジルお兄様を睨み付けた。

「誰もわたくしに近づく人はおりませんでした。いつも部屋に一人。誰かがわたくしの世話をしても、わたくしの顔色ばかりみて、わたくしに寄り添う人など誰も」

 わたくしが部屋に閉じ込められているのに、わたくしと近い立場の、友達になりそうな人を紹介してくれたこともない。

 ジルお兄様は首を振る。

「……俺がいるじゃないか。俺はちゃんとお前のことを愛していた。父上もだ。なのに」

「わたくしをずっと部屋に閉じ込めておいてーーーそのようなことを?」

 わたくしは、長く部屋に閉じ込められていた日々を思い出した。

 誘拐されるからと、外に出してもらえなくなったわたくしは、代わりに色んなものを与えられた。でも、外に出たい気持ち以上に心が踊るものはなかった。

 

 わたくしがちゃんとしっかりしたら、外に出れるのかしら。

 そんな期待は、脆く壊された。

 15才に魔法学園に行くまで、屋敷で過ごすように言われたからだ。わたくしが少し侍女などで遊んだり、軽い罰を与えた程度で、この扱いは酷すぎる。下賎な者を懲罰して何が悪いのかわからない。 

 

 そして可笑しかった。

 それでも素直に従っていた自分が。

「確かにお父様もジルお兄様も、わたくしを愛してくれていました。それにはちゃんと感謝をしておりますわ。だからわたくしはちゃんとお二人の命は残していたでしょう?」

 二人に対してはわたくしも愛してはいるけれど、愛されていたことよりも閉じ込められた恨みの方が強いかもしれない。

「いつでも殺せたのに、わたくしは殺さないであげたのです。ジルお兄様も、わたくしに感謝すべきだと思いますわ」

 

 言って、わたくしはずっと一人、部屋の中でアラン殿下の絵写真を眺めていた自分を思い出す。

 お兄様も短い時間だけ訪れて、お父様は仕事で殆ど顔も見せない。

 わたくしの傍にずっといてくれたのは、アラン殿下の絵姿だけだった。四角い小さな紙の上で、凛々しくも優しい瞳を宿し微笑まれたアラン殿下。

 

「ーーーわたくしの心の支えは、アラン殿下だけでございました。いつかきっと童話のように、皇子様が閉じ込められたわたくしを助けにきてくれるものと信じて、ずっと過ごして参りました」

 

 きっと、あの写真よりも素晴らしく凛々しい人が、わたくしの前に現れてくれる。

 それを信じて疑わなかった。


「アラン殿下は、下賎な下々の者にも誠意を持って尽くし、温情を与えておりましたでしょう?そんな優しいお方なら、間違いなく、わたくしが家に閉じ込められている事情を聞いて、助けにきてくれると思っていたのですーーーだって、アラン殿下はわたくしの婚約者ですもの」


 そうか、とジルお兄様は呟く。

「それであんなにアランに執着していたんだな。ずっと不思議で仕方なかったんだ。ーーーあれほど、アランがリーネに対して冷たい態度をとっていたのに」


 ジルお兄様は不思議なことを言う。

 アラン殿下は、本物であるわたくしの前には現れなかったけれど、わたくしよりも下であるわたくしの憑依者にも、あんなに優しく、愛しそうに接していた。

 冷たい態度など、とられた覚えはない。


「アラン殿下はいつも優しくして下さっているでしょう?わたくしの想像通りの殿方でしたわ。とても美しく精悍で、素敵なお声。優しいのに少しだけ意地悪でーーーー。理想の皇子様ですわ。わたくしに相応しい輝きをお持ちですもの」

 わたくしの中の人間にでさえ、あの態度。それならば、高貴なわたくしだったら、きっともっと、わたくしを愛してくださるに違いない。


「ーーーでも、他の者達は、許せませんわ」

 わたくしは眉根を寄せた。

 ここに集まる者達を思い浮かべると、はらわたが煮えくり返る。

 高貴なわたくしには寄ってもこなかったくせに、わたくしに憑依した者には笑顔で近寄ってくる不埒な者達。本来の道理を理解していないにも程がある。

 

「わたくしでない者のために、こんなに人が集まるなんて……許せませんわ。ーーーわたくしの身体に入り込んだクズを慕うような頭のおかしい者は、皆、死んでしまえばいいのです」

「リーネ……」

 ジルお兄様は、困ったようにしたが、優しい瞳に変えて、わたくしに一歩近寄った。わたくしは少し警戒をする。ジルお兄様が何かをしようとしている気がした。

「……そうだね。皆、頭がおかしいのだろう」

 同意されて、わたくしは少しだけ警戒を解いた。

 やはり高貴なジルお兄様は、わたくしの考えを理解してくれるのか。それもそうだろう。

 ジルお兄様は、高貴な人間の中でも高貴な人。

 王族の血をひく、リンドウ帝国唯一の公爵家の中で、たった一人の跡取り。いずれの公爵様ですもの。

 わからないはずがない。

 わたくしはジルお兄様を見つめた。

「ジルお兄様もーーーそう思われまして?」

 ジルお兄様は、勿論だというように、にっこりと笑った。

「当たり前だ、リーネ。彼らは頭がおかしい」

 うんうん、とわたくしが頷いたのを見てから、ジルお兄様は言葉を続けた。

 ジルお兄様は少しだけ声を低くする。

「ーーー俺も含めてね。でも、それをわかっていながらも、惹かれてしまうんだ。愚かにも」

 その瞬間、ジルお兄様の後ろに隠れていた聖女がわたくしに飛びかかってきた。

 わたくしは避けようとしたが、聖女の手のひらがわたくしの白い鎧の胸元に添えられる。


 アラン殿下が『わたくしに』プレゼントしてくれた、素晴らしく高貴な白い鎧を、この女に触れられた。

 なんと無礼な。


「『高位聖魔法 精神濾過(マインドフィルター)』!!!!」


 わたくしは鎧を触られた怒りで、聖女が何と言ったのか、聞こえてなかった。


 何かの魔法をかけられたのかはわからないが、聖女は聖魔法しか使えない。

 わたくしに害をなすことはできない。


 なのに、聖女に触られた胸元は光り始めた。

 わたくし全体を包み込み、光が細胞という細胞に入り込んでくる。


「ーーーなんですのーーー?」

 肌から入った光は、なぜか光の粉になってわたくしから落ちていった。パラパラと輝く光は綺麗だった。


 光が完全に消えるまで、しばらく時間がかかったけれど、結局、光らなくなっても、何が起きたのか全くわからなかった。

 呪いでもかけられたのか。

 聖女が呪いなど、かけるとは思えないけれど。


「ーーー貴女、わたくしに何をなさったの?」

 わたくしが首を傾げると、聖女とジルお兄様は、そんな馬鹿なという驚きの顔でわたくしを見つめた。

「どういうこと?魔法は確実に発動したわ」

 動揺が隠せない聖女に、ジルお兄様が目を合わせる。

「ーーーまさか」

とジルお兄様は呟いた。

「心に邪悪なものが入り込んでいるわけではなく、完全な悪だというのか?リーネの性質が」

「!!!!そんなことが」


 ふぅん、とわたくしは二人の会話を聞いて、ほくそ笑んだ。よくわからないけれど、二人の目論見は外れたということなのでしょう。


()()()()()


 わたくしは低く。言葉を吐いた。

 わたくしを騙すように近づいた事、そして聖魔法とはいえ、わたくしに攻撃に似た魔法をかけたことが問題だった。

 つまり、わたくしを敵に回したいと、そういうことなのでしょう?

 元々、聖女は殺す気だった。

 ジルお兄様は、わたくしを愛してくれているから、生かす気だった。ーーーでも。


 もういい。


 そう思った。

 わたくしにはアラン殿下がいる。

 わたくしよりも聖女の味方をするようなお兄様なんて、わたくしはいらない。必要ない。


 わたくしは剣を抜いた。

 この二人を邪魔するものは、誰もいない。

「お望み通り、二人一緒に殺してさしあげますわ」


 わたくしが言うと、ジルお兄様はすぐに聖女を自分の後ろに隠した。転移魔法を使おうとするジルお兄様を、私は剣を持つ反対の手で掴んだ。


「逃がしませんわよ」

 わたくしは微笑んだ。

 ジルお兄様の転移魔法は、ジルお兄様に触れた者を皆一緒に連れていく。こうやってジルお兄様をわたくしが掴んでいる限り、ジルお兄様がどこに逃げようと追っていけるのだ。


 殺してやる。

 わたくしを邪魔する人間など、一人残らず。


 わたくしは剣を振り上げ、それを二人に向けて振り下ろした。ジルお兄様が、聖女を抱き締めて目を閉じる。


「!???」


 剣を振り下ろして、そこに倒れたのは、なぜかわたくしだった。

 建物の屋上の地面が目の前にあって、わたくしは意味がわからず、一瞬、頭が混乱する。

 足を動かして起き上がろうとしたら、足に力が入らなかった。

 足を見ると、両足の腱が容赦なく斬られていた。余計な血が流れることはなく、ものすごく正確に、足の腱だけを狙って最小限に斬っている。 


 目の前に、黒いショートブーツを履いた細い足が見えた。

 寝そべった形で上を見上げると、その男は全身黒い服を着ていた。髪まで黒い。


 ロジーという男だった。

 わたくしの中に入っていた者が、とにかく信頼していた闇の者。

 その男は、憑依者には見せたこともない、ぞっとした顔でわたくしを見下ろしていた。

 わたくしは感情もなさそうな人間の顔で、こんなに怖い思いをしたのは初めてだった。

「ーーーその二人を殺したら、リーネが悲しむのがわからないのか」


 冷たい瞳だった。

 髪と同じ黒い瞳は、まるで物をみるかのようにわたくしを見ている。

「リーネを傷つけるのは心苦しいけど、このままリーネがリーネでなくなるのは、僕はもっと許せない。その身体がリーネのものでなければ、僕はどんな非道なことをしてでも、あんたを殺せるんだが」

 顔を近づけられて、その整った顔でわたくしを覗き込んだ。男の目に、殺気を感じた。

 

 殺される。

 

 わたくしは、屋上の地を爪で掻いた。身体が逃げようとしている。

 この気高い血のわたくしが。

 闇魔法を使いたくても、元々、魔力がないと判断されたわたくしだ。わずかでも有るのが奇跡なくらいに。

 黒い玉を作ろうと思ったら、先程の攻撃でわたくしの魔力は殆どなくなってしまっていた。


「わ、わたくしはっ」

 声にならない声をあげた。

 わたくしがまさか、誰かから見下される日がくるなんて。

「わたくしは、グランドロス公爵が娘、リーネ・アネット・グランドロスですわよ?そのわたくしに、こんなことをして、ただで済むと思っておりますの?」

 言ったわたくしの声は、冷笑で返された。

「だから?ーーーそれがどうしたの」 

 ロジーという男は、どこからともなく長い釘を一本取り出した。それを魔法のように五本に増やし、その先端をわたくしに向けた。

「僕は聖女暗殺を依頼されていて、それからジル様の方に乗り換えた。その闇の組織は僕が全員殺したけど、まだ各地に僕を狙うやつらは沢山いるだろう。ーーー今更、公爵家の追手が増えたところで、何も怖くない」


 むしろ、と男はわたくしに目を細めた。

「このままリーネが戻らない方が怖い」

 そういって、男は私の右手の指と指のわずかな隙間に長い釘を刺した。硬いはずの地面にその釘が刺さって立つ。1ミリでもずれたら、わたくしの手に穴が空いていただろう。

「ーーー戻れるの?戻れないの?」

 ガキン、とまたもう1本、違う指と指の間に釘を刺される。

「戻れないのであればーーーーここで僕があんたを殺してあげる」

 ガキン、ともう1本。


 この男ーーーー本気だ。

 わたくしは喉を鳴らした。

「わ、わたくしはっ……わたくしですわ。戻るも戻らないも……あぁっっ!!!」

 右手の甲に激しい痛みが走った。

 明らかに故意に、わたくしの手の甲の中心に、長い釘が突き刺さっていた。


「ロジー!!やめてくれ!!!」

 見ていられないとジルお兄様が叫ぶが、目の前の黒い死神のような男は、その冷たい瞳を全く動かさなかった。

「この人はジル様の妹なんだよね。自分がさっき殺されかけてるのに、よくそんなことが言える」

 ロジーはわたくしの手の甲に刺した釘を、更に強く奥まで押し込んだ。釘が手を貫く。

「っいい痛っっ……っ」

 激痛で気が遠くなりそうになる。

「でも、僕には全く関係ない人だ。あのリーネでなければ」

 黒い瞳に、私は全身が粟立つ感覚を感じながら、男を見上げた。

「ーーー戻れと言われても、戻り方など知りませんわ。あの大魔王という者がわたくしをここに戻したのでしょう?わたくしではなく、その者に聞けばいいではありませんか」

 きょとんとロジーは目を丸くした。

「……確かにそうだね。僕としたことが、あまりに動揺してしまって、頭が回らなかったみたいだ」

 はは、と笑ってキチガイの男は立ち上がる。大魔王はどこかと辺りを見渡した。


 わたくしはその一瞬の隙を狙って、左手で右手の甲から釘を抜き、握った釘を男に刺そうと勢いよく振りかぶった。

 キィン、と金属の音がしたかと思ったら、わたくしの頭は地面に強く押し付けられていた。息ができなくて無理やり横を向くと、男に刺そうとしたはずの釘が、わたくしの1センチ目の前の地面に深く刺さっている。

 あと1センチ違えば、頭の後ろから目を刺されていたかもしれない。


 ぞっと全身の血の気が引いた。

 

「馬鹿だなぁ。僕に隙なんてあるはずないじゃないか」

 頭の上から低く落とされた声に、わたくしの身体が震えた。


 ーーーー怖い。

 わたくしは初めての、絶望するほどの恐怖に、震えながら目を強く閉じた。

 怖い。この男ーーー怖い。


「リーネっ!」

 聞こえたその声に、わたくしは目を開く。

 鳥肌が立つほど耳に心地よいこの声は。

「ーーーっアラン殿下っ!!!」

 わたくしは叫んだ。

 アラン殿下。わたくしの婚約者。

 やはり皇子様は、姫のピンチに助けにきてくれる。

 頭を地面に押し付けられたままで、わたくしはアラン殿下の声の聞こえる方に無理やり顔を向けた。


 アラン殿下が、血相を変えてわたくしの方に走り寄ってくる。

「ロジー!!!何をしているんだ」

 明らかに満身創痍のアラン殿下。

 しかしアラン殿下は強い。ケリー騎士団長とともに魔物と戦っていた二人は、きっと魔物に勝ったのだろう。

 戦い終わって、わたくしの方に駆けつけてくれた。


「アラン殿下っ!」

 わたくしはもう一度、アラン殿下の名前を呼ぶ。死神のような男が立ち上がったので、わたくしはようやく解放された。

「大丈夫か、リーネ」

 アラン殿下がわたくしの前に膝をつき、わたくしの身体を支えた。手の釘は自分で抜いていたが、腱を斬られた両足は全く動かなかった。


「なんて酷いことを」

 アラン殿下は、わたくしの手から滴り落ちる血を確認して、ロジーという男を睨み付ける。

 国の皇太子が激怒しているのに、ロジーは全く気にする様子もなかった。

「スミレに治してもらえばいいでしょ」

 アラン殿下は即座に否定する。

「そういう問題ではないだろうが」

 わたくしもアラン殿下に同意して頷く。

 本当に、このロジーという男は人間とは思えなかった。高位貴族のわたくしに暴力をふるい、王族のアラン殿下に敬意を示さない。

 鞭百叩きの上で、斬首の死刑だ。間違いない。


 わたくしの右手と両方の足首から、血は流れ続ける。

「リーネ……血が……」

 アラン殿下は、わたくしの手を握り、懐から取り出した白いハンカチでわたくしの手を縛った。血はすぐにハンカチに滲む。

「ーーー大丈夫ですわ。アラン殿下。このくらいの怪我など」

 見とれてしまうほど端正な顔が目の前にあって、わたくしはぼんやりと魅入ってしまう。

 今まで読んできたどんなロマンス小説の王子よりも、間違いなく素敵な男性だと思う。金色の髪の下の、深い紫の瞳は、この世で一番綺麗な星だ。

 その星が心配げに揺れる。

「いや、とても痛そうだ。これほどの傷を受けるとは……可哀想に」

 アラン殿下は、わたくしの血に濡れた手を、自分の頬に当てた。アラン殿下の左頬にわたくしの血がついた。


「ーーーアラン殿下。いけませんわ。アラン殿下のご尊顔が」

「いいんだ。リーネの血なのだから」


 アラン殿下に見つめられて、わたくしはうっとりとしてしまう。

「アラン殿下……」

 わたくしが呟くと、アラン殿下はわたくしを抱き締めた。足の動かないわたくしのために、アラン殿下は身体を屈めて、わたくしをその広い胸の中に埋める。


 強くーーー抱き締められた。

 とても強く。

 わたくしはそのあまりの強さに顔をしかめてしまう。

「……アラン殿下。少し……痛いですわ」

「それでーーー」

 ぞくりとする美声で、アラン殿下はわたくしの耳元で尋ねた。

「ーーーお前は今日だけで何人の人を殺したと思う?」


 え?、とわたくしは身体を硬直させる。

 アラン殿下の顔が見えなくて、わたくしはその言葉の意図が判断しきれなかった。

「人の数……ですの?そんなのーーー数えるほどでも」

「民は俺の宝だ」

 はっきりと言った声には、怒りが込もっていた。

「たった1人でさえ俺は失いたくない。それが今日だけで何十人。いや、何百人の命が奪われた。大魔王と戦うために命をかけた連中がだ。大魔王と戦う前にーーー無意味に死んだ」


 アラン殿下の顔が見えない。

 わたくしは、首を傾げるしかなかった。

 アラン殿下がなぜそんなにお怒りになられるのか、全くわからなかった。ただの平民の命だ。そんなもの、いくらでもあるのに。

 平民は『宝』などといえるものではない。

 宝というものは特別なものであって、それはわたくしやアラン殿下のように高貴な存在に使うもので。決して、下賎な人間達に使うものでは……。

 

「ーーーそれが、どうしたと言うのですか……?」 

 わたくしが心からそう言うと、アラン殿下はそのまま、しばらく黙った。わずかに震えている。

「アラン殿下……?」

「ーーーそれがどうした……だと?」


 アラン殿下の声は、本気で怒っていた。わたくしを抱き締める腕が更に力を入れる。

「っぐっ!」

 わたくしが険しい顔をしても、気にしてくれない。

「……リーネだったら、民の1人が苦しい思いをしていたら、そこに駆けつけて助けようとしただろう。10人苦しかったら、身を呈して救うだろう。100人いてもーーー必ず100人助けようとする。必ず」


 わたくしは信じられない思いだった。

 アラン殿下が、わたくしの名前を呼びながら他の人間のことを話す。

 リーネは、わたくしですわ。

 わたくしは……。


「ーーーリーネは、俺が甘い言葉を吐いたら、心底、嫌そうな顔をするんだ」

 

 アラン殿下の、せっかくの甘い言葉を?

 そんなことわたくしはーーー。


「リーネだったら、俺がこうやって抱き締める前に、間違いなく俺を蹴飛ばしてきたはずだ。ーーー真っ赤な顔をして」


 無理やりアラン殿下の腕から顔を出して見上げたアラン殿下は、悔しそうに……そして哀しそうに、目を赤らめていた。

 自分の腕と腕の間から覗くわたくしの顔を見つめながら、わたくしではない『誰か』を見ている。


「リーネ」

 わたくしの名を、アラン殿下は呼ぶ。

 でもそれは。


「……リーネ……」

 またわたくしを強く抱き締めて、アラン殿下は懇願するように呼び掛けた。

 わたくしではない、わたくしの名を。

 ーーーとても愛しそうに。

 ーーー神にでも祈るように。


 わたくしの目から、涙が一粒零れた。

 こんな感情、わたくしは知らない。


 わたくしはずっと夢を見ていた。

 いつか王子様が、姫を閉じ込められた部屋から助け出してくれる。姫を自由にしてくれる。

 姫を愛してくれて、きっとずっと幸せでいられるようになる。

 

 ーーーそれは、わたくしではない……?


「……トモコなんて名前、俺は知らない。リーネはリーネだ。真の名前なんて……」

 アラン殿下は心の底から絞り出すように、言った。

 目を閉じて、とても苦しそうに。

「リーネ。お願いだ。帰ってきてくれ。必ず帰ってくるとーーー言ったじゃないか。俺に」


 ポツ、ポツと、わたくしの頭に雨が落ちてきた。

 他の場所には落ちていかない、わたくしだけの頭上に。


 ロマンスの鍵は大抵、キスとーーー涙。


 ーーーわたくしは、その目で見ていた。

 それを思い出した。

 あの日。アラン殿下とともに、わたくしの中にいる人物が映し出した球体の映像。

 アラン殿下達の卒業パーティーの日。

 わたくしの記憶にないわたくしが、アラン殿下と、その横に立つ聖女に見下ろされて。

 

 わたくしが聖女に毒を盛ったと言われた。

 多分そうなのだろう。わたくしが、アラン殿下の横に立つ平民など許すはずがない。

 その毒を飲めと、アラン殿下に言われた。

 わたくしはーーーその毒を素直に飲んだ。


 だって、アラン殿下に言われたから。

 

 殿下はわたくしの夢。わたくしの全て。

 毒を飲めと言われたら、毒くらい飲む。

 アラン殿下の願いは、わたくしのーーー。


 わたくしの瞳からも、一粒、涙が落ちていく。


 わたくしはただ。 

 ーーー愛されたいだけだったのだけど。


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