第09話 透き通った不合格
素体は十八枚あった。
セシリアは作業台に黒い布を敷き、ランプを斜めから当てて一枚ずつ並べた。光が素体を抜けると、内側に白い粒が浮かぶ。針の先ほどの泡が、ひとところに固まっているものもあれば、全体に薄く散っているものもあった。
十一枚目まで数えて、彼女は手を止めた。泡のない素体は、残り七枚しかなかった。
「前の溶解では、七枚のうち泡で落としたのは二枚でした」
戸口でリディアが小さくうなずいた。夜に寄ってから、そのまま帰らずにいた。
セシリアは棚から三冊の帳面を下ろした。灰の帳面、溶解の帳面、徐冷の帳面。どれも父の代から同じ書き方で続いている。日付、灰の仕入れ先と精製の回数、配合の重さ、炉に入れた刻と出した刻、徐冷箱の火を落とした刻。
前回の頁と今回の頁を並べ、指でたどる。
配合の重さは同じだった。灰も前回と同じ山村の炭焼きから買ったもので、精製の回数も変わらない。違っていたのは、溶解の帳面の二行だった。
炉に入れた刻が、前回より半刻遅い。出した刻は、前回と同じだった。
「窓硝子の仕込みと重なった日です」
自分で書いた字を見ながら、セシリアは言った。
「窓の分を先に出してからレンズの坩堝を入れました。窓の火入れに間に合わせるため、出す刻は変えなかった。泡が抜けきる前に、取り出したのかもしれません」
「かもしれない、ですか」
「まだ一つしか見ていませんから」
セシリアは泡のない七枚を脇へ寄せた。
「こちらは研磨してみます。泡がなくても、それだけで良いとは言えません」
*
翌朝、カールが七枚のうち四枚を三番の曲面に粗く研磨した。昼過ぎ、仕上げを終えた四枚がセシリアの前に並んだ。
どれも澄んでいた。窓辺にかざすと、外の木の枝が少しの濁りもなく映る。作業場の隅で枠の寸法を測っていたトビアスが、思わずといった様子で覗き込んだ。
「綺麗なもんだな。これで駄目なら、俺には何が駄目なのか分からない」
セシリアは答えず、読み札を作業台に立てた。リディアが写字生の会所で使っていた、細い格子と大小の文字を刷った札だ。一枚目のレンズを札の前に構え、ゆっくり離していく。格子が大きくなり、端まで真っすぐなまま焦点を結んだ。
二枚目も同じだった。
三枚目を構えたとき、格子の右上の線が、水面に映したようにわずかに揺れた。レンズを少し傾けると、揺れも一緒に動く。目の錯覚ではない。
四枚目では、格子の中央を一本の筋が斜めに横切っていた。筋の上だけ、線がほんの少し曲がる。
セシリアは三枚目と四枚目を、先日組んだ定規板の焦点台にのせた。白い漆喰の板に、遠い倉の窓枠の像を結ばせる。一枚目と二枚目の像は輪郭が締まった。三枚目の像は片側が尾を引くように崩れ、どこまで台を滑らせても、輪郭が揃わなかった。
「硝子の中で、曲がり方が揃っていないんです」
リディアが札を覗き込んでいるのに気づき、セシリアは言った。
「溶けた硝子がよく混ざらないまま固まると、外から見て透明でも、場所によって光の曲がり方が違う筋が残ります。磨いて曲面をつけると、その差が像の歪みになって出てくる。素体のままでは分からないことが多いんです」
「さっきの泡と同じ原因ですか」
「同じ溶解のときのものです。泡が抜けきる前に出した硝子は、たぶん混ざり方も足りていない。冷ましかたが急だったせいもあるかもしれません。徐冷の帳面では、窓の仕込みのために火を落とすのが前回より早かった」
セシリアは三枚目と四枚目を、作業台の端の木箱に入れた。父の代から、不合格のレンズを入れてきた箱だ。
*
リディアは帳面を開いていた。ペンは動いていなかった。
「十八枚から使えるのは、多くても五枚ですね。磨いていない三枚がみな良くても」
「三枚の残りも、磨いてみるまで分かりません」
「誓約してくださった方々の分は、十二組で二十四枚」
リディアは数字を口にしてから、言いよどんだ。
「三番と四番の方が多いので、番手ごとに揃えるともっと要ります」
「分かっています」
「前払いの八十枚から、もう灰や燃料や研磨砂に使った分があるのも分かっています。不合格の分を作り直せば、残ったお金で次の材料まで賄えるのか」
そこまで言って、リディアは口をつぐんだ。セシリアは手を止めずに帳面を閉じた。
「わたしの返済の心配まで、してくださらなくていいですよ。九十日で百六十八枚。それは、わたしの帳面の数字です」
「すみません。ただ、鑑札の掲示もあと四日で明けます。交付されればすぐ手付金を受けられると、皆さんにお話ししてしまっていて」
リディアの視線が、一瞬だけ不合格の木箱に向いた。
セシリアはその目の動きを見逃さなかった。けれど、リディアは何も言わなかった。歪みが筋に沿う一本だけなら、使える人もいるのではないか。安くすれば――。そんな言葉を飲み込んだのかどうか、セシリアには分からない。分からないまま、自分から先に言った。
「この二枚は売りません。値を下げても、事情を話しても」
「はい」
「ヘルマンさんは、一日に何刻も、顔を伏せて字を写す人です」
声が少し硬くなったのを、セシリアは自分でも感じた。
「四半刻掛けて試すくらいなら、気づかないかもしれない。でも、朝から晩まで歪んだ筋越しに字を見たら、線を追うたび、見え方が揺れます。疲れて、頭が痛くなることもある。それが眼鏡のせいだとは、本人には分からないんです。読み石の分くらいしか見えなかった頃より、悪くなるかもしれない」
リディアはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり帳面に線を引いた。
「売れないもの、ではなく、売ってはいけないもの、ですね」
「父は、こういうものを『透明なだけの硝子』と呼んでいました」
言ってから、セシリアは少し後悔した。父の口癖をこの人に聞かせるつもりはなかった。
リディアはその言葉を書き留めなかった。代わりに、帳面の新しい頁に「納期の見直し」と書いた。
*
二人は作業台を挟んで、日の暮れまで座っていた。
リディアは、誓約者十二人への説明をどうするかを先に言った。鑑札交付後の同日渡しを見込んでいたが、その計画から考え直さなければならない。まず炉の予定を確かめ、合格したものしか渡さないことを伝える。納品順や延期については、十二人に選んでもらう。
「待てない方には、保証金を公証人から返していただきます。その手続きは、わたしが先に確かめておきます」
「見込みのない日付を、言わないんですね」
「一度言った日付を、また動かすほうが信用を失いますから」
それから、リディアは言いにくそうに付け加えた。
「不合格になった分にかかった材料と手間は、残しておきたいんです。使えるレンズの原価とは分けて。残りの三枚を磨いてから、見せていただける範囲で帳面と突き合わせさせてください」
セシリアはうなずいた。損を隠さないのは、この人の美点だと思う。それを口に出すつもりはなかった。
「原因は、二つに絞ります」
セシリアは溶解の帳面を開いて見せた。
「坩堝を炉に入れておく時間と、徐冷の火を落とす時間。どちらも、窓の仕込みに合わせて削っていました。灰と配合は変えずに、次はその二つを前回と同じに戻します。それで泡と筋が減れば、その二つを疑う根拠になります。減らなければ、灰の精製を疑います」
「次の溶解で、確かめられるんですね」
「炉に半日、まるごと使える日があれば」
*
その夕方、窓硝子の職人ヨハンが作業場に顔を出した。手に、ローヴェン商会の倉から届いた納品の書付を持っている。
「親方。窓の次の納めは、九日後の朝だそうです」
セシリアは書付を受け取った。いつもの書式、いつもの数量。固定の単価も、引き取りの刻限も、契約書にあるとおりだった。何一つ変わっていない。
窓硝子の分を揃えるには、炉を六日、続けて焚かなければならない。仕込みと冷ましを入れれば、その前後も空かない。
セシリアは壁の暦を見た。九日のうち、レンズの坩堝を炉に入れておける日は、一日もなかった。




