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婚約者より私を優先する幼馴染へ。私はあなたの婚約者と、眼鏡の商売を始めます――透明なだけの硝子が商都を変えるまで  作者: 他力本願寺


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第10話 炉の暦

翌朝、リディアが工房へ着いたとき、炉にはもう火が入っていた。


 ヨハンが灰掻きで焚き口を整え、カールと、薪を積んだ荷車の数を数えている。熱気が戸口まで来ていた。作業台の上には、昨夜の書付が文鎮で押さえてあった。


 ローヴェン商会の倉の印。窓硝子の板、いつもの寸法、いつもの枚数。引き取りは八日後の朝。


 リディアはその書式を知っていた。商会にいた頃、同じ書付の控えを何十枚も綴じてきた。月に二度、決まった間隔で出る通常の発注。誰かが急に思いついた注文ではない。数量も単価も、融資のときに結んだ契約のとおりだった。


「六日、焚き通しです」


 奥から帳面を抱えてきたセシリアが言った。


「今朝から温度を上げて、明日から板を吹きます。最後の板を出したら冷まして、切って、検めて、梱包する。八日後の朝に倉へ届けるには、今日から一日も空きません」


「レンズの坩堝を、その合間に入れることは」


「昨日、それをやって十三枚を駄目にしました」


 セシリアの声に責める響きはなかった。ただ事実を置いただけだった。


    *


 二人は作業台の端に紙を広げた。リディアが縦に日付を書き、セシリアが横に炉、徐冷箱、研磨台と書き込む。


 窓硝子の六日間を、セシリアは太い線で塗りつぶした。その前後にも、炉を上げる日と冷ます日を書き足す。塗りつぶされた帯は、八日後の納品の朝まで途切れなかった。


 リディアはしばらく紙を見てから、口を開いた。


「念のため、伺ってもいいですか。今回の窓の納めを、半分だけ次回に回してもらう相談は」


 言いながら、自分でも答えは分かっていた。それでも、セシリアの口から聞いておきたかった。


「全量買取の契約です」


 セシリアは帳面の後ろに挟んだ写しを開いた。リディアも何度か読んだ条項だった。


「借金を返し終えるまで、窓硝子は決まった値で、作った分だけ全部ローヴェンが引き取る。その代わり、こちらも決まった時期に決まった数を納める。納めが遅れれば、契約の不履行になります」


「先方が延期に応じる可能性も、なくはないと思います」


「応じてもらったら、借りができます」


 セシリアは写しを閉じた。


「婚約を断って、まだひと月も経っていません。今わたしが頼みに行けば、それは交渉ではなくお願いになります」


 リディアは黙ってうなずいた。もう一つ、言わずにいたことがある。延期を頼むとしても、公の窓口へ相談することはできる。だが、先方の内々の納期の余裕や、どの顧客を後回しにできるかまで持ち出せば、退職のときに交わした誓約に触れる。そういう手を使わないと決めたのは、自分だった。


「それに」


 セシリアは焚き口のほうへ顎を向けた。


「ヨハンとカールの給金は、窓の売上から出ています。薪も、灰も。全部払って残るのが、月に三十枚。それが返済のために積んでいるお金です。窓を減らせば、そこが減ります」


「九十日で百六十八枚」


「窓の分で積めるのは九十枚。残りの七十八枚は、レンズの卸で作るつもりでいます」


 セシリアは淡々と言った。


「だから、レンズを捨てるわけにもいかないんです」


 リディアは紙の端に、小さく二つの数字を書いた。三十と七十八。書いてから、その数字が自分のものではないことを思い出した。工房の返済は、セシリアの帳面にある。ベル商店が払った前払いの八十枚は、注文したレンズの代金で、すでに灰と燃料と研磨砂の一部になっている。そのどれも、返済の準備金と混ぜて数えてはいけない。


「レンズを先に焼いて、窓をあとから詰める案も、だめですね」


「六日焚き通す仕事を、五日には縮められません。板が薄くなるか、割れるか、両方か」


「ヨハンさんたちに、夜も詰めてもらうことは」


 口にしてすぐ、リディアは首を振った。


「――いえ。撤回します」


 セシリアが少しだけ眉を上げた。


「焚き通しの六日間は、もう交代で夜も番をしているはずです。そこにさらに乗せたら、払う給金も薪も増える。増やした分が、どこから出るのかを決めずに頼むことになります」


「そうです」


 セシリアの返事は短かった。それでも、言いかけた案を自分で引っ込めたことは、ちゃんと見ていたらしい。


    *


 塗りつぶした帯の外側を、二人は一つずつ埋めていった。


 八日後の朝に窓を納めたら、次の納品までは半月ある。次の窓の仕込みを始めるまでの七日ほどで、レンズの溶解から徐冷、研磨、検査までを進める。炉を使えるのは、その中の限られた半日だけだった。


「坩堝の時間は、前の良かった溶解に戻します」


 セシリアは溶解の帳面を開いた。


「半刻も削りません。徐冷の火も、帳面どおりに落とします。昨日の二つの原因を確かめるには、それ以外の条件を動かさないことが一番です」


「この隙間で、溶解は何回できますか」


「一回」


 即答だった。


「今回は一回の条件を確かめます。炉の残り火を使って焼いても、素体は別の箱で二晩冷まさなければならない。選んで、磨いて、測ってから、次をどう焼くか決めます」


 研磨台の欄には、カールの名を書いた。窓を焚いている間、カールは板の切り分けと梱包を受け持つ。レンズに戻れるのは、窓を納めた翌日から。素体の選別が終わるのを待って、一日に磨けるのは四枚から六枚。


「定めた刻を越えて磨いてもらう分は、決めた割で払います」


 セシリアは言った。


「でも、毎日は払えません。それに、疲れた手で磨いたレンズは、また歪みます」


 リディアは、カールの欄に一日の刻限を書き込んだ。それ以上の線は引かなかった。


 紙が埋まっていくにつれて、リディアの手は少しずつ重くなった。前世で何度も作った工程表と、形はよく似ている。違うのは、この表を一枚引き直すたびに、誰かの給金と、薪の束と、硝子の泡の数が一緒に動くことだった。かつての自分は、そういう表を会議室で引き、現場の重さを紙の外に置いていた。


「セシリアさん。わたしは窓の契約も、誓約してくださった方も、両方守りたいと思っています」


「守れますか」


「今は、まだ分かりません」


 セシリアはそれ以上何も言わなかった。リディアも、できると言わなかった。


    *


 日が傾いた頃、リディアは自分の鞄から、誓約者の帳面を取り出した。


 十二人の名前。仕事、作業の距離、番手の見込み。写字生のヘルマンは三番、刺繍のイルザは四番、帳場のアンナは二番。三番と四番に名前が集まっている。レンズにすれば二十四枚。今、合格しているのは二枚。研磨を待つ素体が三枚。


 その頁の下に、リディアは自分の字で一行書いていた。


 ――鑑札交付の十日後を目安に、会所で十二人に同日渡し。


 掲示が明けるのは三日後。その十日後は、写字生の会所で、全員へ一緒に渡せればと、見込みを伝えていた日付だった。手付金をいただくのも、その日に揃えるつもりでいた。


 リディアは誓約者の帳面を、炉の予定表の横に置いた。


 指で日付をたどる。最初の隙間で焼ける溶解は一回。前回より不良が減るかどうかも、まだ分からない。少量で試す一回では、全数が合格しても二十四枚に届かない。足りない分を焼けるのは、次の窓を納めたあとの、もう一つの隙間になる。


 そして、会所で渡すと話した日は、最初の検査が終わるかどうかという位置にあった。もう一回焼く余地はなかった。


 リディアは、その日付の上に指を置いたまま、しばらく動けなかった。


「動かせないのは、窓の火のほうですね」


 セシリアが紙を覗き込んで言った。リディアはうなずいた。


「はい。動かさなければいけないのは、わたしが言った日付のほうです」


 焚き口の向こうで、ヨハンが次の薪を放り込んだ。炉の音が、少し低くなった。

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