第11話 半日ぶんの透明
窓硝子は約束の朝に納まった。
荷車を送り出す前に、ヨハンが最後の板を数え直した。枚数は発注書どおりで、割れもなかった。受領書が戻ると、セシリアは印を確かめてから帳場の箱へしまった。返済の箱には、今月の三十枚がもう入っている。
炉の火はまだ落としていない。次の窓の仕込みまで七日ある。そのうち、坩堝を据えて溶解に使える刻は、半日だけだった。
セシリアは溶解記録を三冊並べた。父の帳面と、自分の帳面と、十三枚を駄目にした前回の帳面だ。
うまくいった回は、窓の仕込みと重なっていなかった。坩堝を入れたのは炉が落ち着いてから半刻後で、泡が抜けるまでの時間を削っていない。徐冷箱の火も、ひと晩かけて少しずつ落としている。前回はその両方が詰まっていた。
「今回は、時間を削りません」
誰に言うともなく呟き、セシリアは炭で予定表に線を引いた。夜明けに坩堝を入れ、昼過ぎに取り出す。半日の枠は、溶解だけでほぼ埋まる。仕込む量を減らせば泡を抜く時間は確保できるが、その代わり素体の枚数も減る。
灰と燃料はリディアから受け取った前払の帳面で買った。返済の箱には手をつけていない。帳面が別になっていれば、夜中に数字を思い出して眠れなくなることもない。
坩堝から出した素体は十枚だった。
十枚とも徐冷箱へ並べ、それから二晩、箱の火を見守った。急げば割れる。割れなくても、硝子の中に冷えむらが残る。その歪みは研磨しても消えない。
冷えた素体を光にかざすと、三枚に細かい泡が残っていた。前回よりは少ないが、ないとは言えない。三枚を不合格の木箱に入れ、残りの七枚を研磨台の脇へ移した。
三日目の朝、カールが研磨台の前に座った。
「一日に四枚、多くても五枚です」
「それでいいわ。夕方の鐘で手を止めて」
カールは何か言いかけて、黙ってうなずいた。窓の仕事が控えているあいだ、彼は板の切り分けと梱包にも手を取られていた。もう少しなら残れます、と彼が言ったのは昨夜のことだ。セシリアは決めた割増を払える日だけと答えて、昨夜は帰らせた。腕の疲れた職人に磨かせた面は、焦点台に載せればすぐにわかる。
研磨の終わったレンズは、一枚ずつ焦点台にかけた。白板に窓枠の像を結ばせ、目盛りを三度読む。読み札の格子を透かして、線の揺れも確かめる。
最初の五枚のうち、四枚は窓枠の像がきれいに締まった。一枚は縁の近くで格子がわずかに膨らんだ。
「研磨の癖です。硝子のせいじゃない」
セシリアは自分で研磨台に移った。
磨き直しは、磨くより神経を使う。すでにある曲面を崩さずに、膨らんだ部分だけを落とさなければならない。指先で押す力が少しでも偏れば、焦点の位置がずれる。
一刻ほどで、右手の親指の付け根が熱を持ちはじめた。セシリアは手を止めて、指を開いたり閉じたりした。細かい震えがある。この手で続ければ、直すつもりの面を自分で壊すことになる。
彼女は布をかけて台を離れ、井戸の水で手首を冷やしてから、帳面をつける作業に回った。磨き直しは翌朝にした。
翌朝の一枚は合格した。残った二枚のうち一枚も合格し、もう一枚は斜めに筋が走っていた。焦点台の窓枠の像が尾を引いた。硝子の中の混ざりむらで、どれだけ磨いても直らない。セシリアはそれを、前回の二枚と同じ木箱に入れた。
前回から未判定のまま残していた三枚も磨いて測った。合格は一枚だった。
石板に数字を書き出す。
合格は九枚。前回の二枚と、今日追加で通った一枚を含む。番手ごとに分けると、三番が四枚、四番が三枚、二番が一枚、五番が一枚。同じ番手を左右にそろえられるのは三組。左右一枚ずつで一組だから、残りの三枚は相方が揃うまで眼鏡にならない。
前回と比べれば、泡も歪みも減った。けれど十枚から合格が六枚、という一回の結果を、作り方が決まった証拠にはできない。次の溶解でも同じ数字が出るとは限らないのだ。
昼過ぎにリディアが来た。
彼女は石板を見て、手に持っていた紙を一度たたんだ。
「鑑札が出ました。掲示の十日間に異議はなし。昨日、市庁舎で登録を済ませてきました」
鑑札の写しが卓の上に置かれた。ベル商店、リディア・ベル。印はまだ乾ききっていないように見えた。
「おめでとう、と言うべきなのかしら」
「まだです」
リディアは、たたんだ紙をもう一度開いた。そこには十二人の名前と、それぞれの番手が書いてあった。
「最初に見込みをお伝えした日に十二人全員へお渡しする、という案は取り下げます。この石板で左右が揃うのは三組分だけです。枠の調整と検査も残っています。あの日付は、わたしが勝手に決めたものです」
セシリアは何も言わずに先を待った。
「日付を守ろうとすれば、どこかで無理が出ます。窓の仕事か、職人の時間か、検査のどれかで」
リディアは名前の横に印をつけた。三番の人が五人、四番が三人、ほかの番手が四人。
「保証金の三十六枚は、まだ公証人のところにあります。鑑札が出たからといって、勝手に手付金へ移すことはしません。正式な売買の書面に、ご本人が署名してからです。待てない方には、預けたまま返してもらいます」
「誰から先に渡すの」
「それを、皆さんに相談しようと思っています」
リディアは少し言いにくそうにした。
「以前のわたしなら、誓約をいただいた順に並べていました。そのほうが説明しやすいので。でも、ヘルマンさんは写本の納期を抱えていますし、アンナさんは帳場の閉め日まで余裕があると言っていました。どなたがいつ困るのかは、ご本人にしかわかりません」
「技術の説明は、わたしがするわ」
セシリアは手を拭いて立ち上がった。
「泡と歪みの話は、あなたの口から聞くより信じてもらえるでしょうから」
リディアはうなずいた。その顔にほっとした色が浮かんだのか、セシリアは確かめなかった。
写字生の会所には、十二人のうち九人が集まった。来られなかった三人には、リディアが同じ紙を届けることになっていた。
セシリアは不合格の一枚を持っていった。読み札を透かしてみせると、前の列の老人が眉を寄せた。
「線が、たわんで見える」
「一日じゅうこれで字を見ていたら、目が疲れます。疲れても、眼鏡のせいだとは気づけないかもしれません。だから売りません」
リディアが続けた。いま左右が揃うのは三組分だけで、組立と装着の確認も残っていること。次の溶解は窓の仕込みが明けてからになること。新しい予定日は、その結果を見てから知らせること。待てない人は申込みを取り消せて、公証人から三枚がそのまま返ること。
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて刺繍のイルザが手を挙げた。
「四番なら、わたしは後でいいよ。今月は細かい仕事が少ないから」
ヘルマンが三番の列を見た。
「写本の納期が月末なんだ。もし先にもらえるなら、助かる」
順番は、少しずつ決まっていった。セシリアが番手の合う人を読み上げ、リディアが紙に名前を書き込んでいく。リディアが順番を指図することは一度もなかった。尋ねて、相手の答えを待ち、書く。それだけだった。
その場の九人から取消しの申し出はなかった。欠席した三人の返答はまだだ。それでもリディアは、取消し用の書付を出席者全員に一枚ずつ渡した。気が変わったらこれを公証人へ、と添えて。
帰りぎわ、オズワルドが会所の戸口でリディアを呼び止めた。古い革の帳面を抱えている。貸与されてから毎日、掛けた刻と外した刻、痛みの有無を書きつけてきた帳面だった。
「次の評議でな、これを見せようと思う」
リディアの手が止まった。
「わしの一存では、組合として何も買えん。だが、延びたことも、断る道があることも、あんたたちは先に話した。それをそのまま伝えるだけだ」
オズワルドは帳面を軽く叩いて、杖をつきながら石段を下りていった。
その背中を、リディアは長いこと見送っていた。
セシリアは右手の親指を握り込んだ。熱はまだ引いていない。明日は研磨を休もう、と思った。
隣でリディアが小さく息をついた。
「次の溶解の日取りは、セシリアさんが決めてください。わたしは、その日から逆算して皆さんに知らせます」
「窓の仕込みが明けた翌朝」
セシリアは答えて、それから付け加えた。
「さっきの順番の決め方は、悪くなかったわ」
リディアは驚いたように瞬きをしたが、何も言わなかった。
二人は会所を出て、並ばずに少し離れて、それぞれの帰り道へ向かった。




