第12話 選ぶための紙
会所に来られなかった三人を、リディアはその週のうちに一人ずつ訪ねた。
製本工房のマグダは、糊鍋をかき混ぜる手を止めずに説明書を読んだ。読み終えると、鍋の縁に木べらを置いた。
「待つよ。でも、わたしの番が来る前に気が変わったら、そのときもお金は戻るんだね」
「戻ります。取消しの書付は、お渡しした日から使えます」
マグダは書付を受け取り、帳面のあいだに挟んだ。
二人目の写字生ベンノは、病み上がりで寝台から起きたところだった。リディアは戸口で、延期の理由と不良品の話を、会所でセシリアが話したとおりの順に伝えた。自分の言葉で足したのは、新しい日付をまだ約束できないことだけだった。ベンノは少し考えてから言った。
「床を離れられるまで、わたしの順番は後ろでいい」
三人目の帳場係は、返事を一晩待ってほしいと言った。翌朝、店の小僧が手紙を届けに来た。待つ、とだけ書いてあった。
リディアは十二人の名簿の最後の欄に、本人の返答と日付を書き入れた。取消しはゼロだった。ほっとしたのは確かだが、それを自分の手柄のように思うのはやめておいた。返金の道を残したからこそ、皆が待つほうを選べたのだ。
その週、工房ではオズワルドの貸与品も再検査し、本人と次の返却日を確かめた。試用の二枚は売り物の在庫へ混ぜず、五段階の古い玉も測定と試用のために残してある。
オズワルドが写字生組合の評議で革の帳面を開いたのは、その三日後のことだった。
リディアはその場にいなかった。評議に出られるのは会員だけだ。様子を知ったのは翌日、オズワルドが樽屋の二階まで階段を上ってきたときだった。
「全部読み上げた。三日目に耳の上が痛んだことも、枠を直してもらったことも。十二人の分が遅れていることもな」
「痛んだところも、ですか」
「良いところだけ読んだら、わしの帳面じゃなくなる」
老人は椅子に腰を下ろし、息を整えた。
「組合長があんたに会いたいそうだ。わしは頼まれた伝言を持ってきただけで、話をまとめに来たわけじゃない」
リディアは礼を言ってから、ひとつ尋ねた。
「組合への資料に、この帳面の数字を使わせていただけますか。掛けていた時間と、痛みがあった日と、直した箇所だけ」
オズワルドは眉を上げた。
「わしが評議で読んだ帳面だぞ」
「評議で読まれたのは、オズワルドさんです。わたしが書類にするのは、また別のことですから」
老人は短く笑い、名前を出してもいいが、目の悪さを大げさに書くなと条件をつけた。リディアはそれを、許可の文面ごと書き留めた。
*
写字生組合の組合長フェルスターは、帳簿の山に囲まれた小部屋でリディアを迎えた。
「会員の目が衰えているのは知っています。去年は写し間違いの差し戻しが、その前の年の倍に増えました。辞めた者も二人います」
リディアは黙って先を待った。
「ですが、組合の金で三十組を買うことは、わたし一人では決められません。十二枚の三十倍となれば、評議にかけて予算を通さなければ。オズワルドさんの話に心を動かされた評議員もいますが、心が動いたことと、金を出すことは別の話です」
「承知しています」
リディアは、持ってきた紙束を机に出さずに膝の上に置いたままにした。
「今日は買っていただくためにお邪魔したのではありません。評議で何を確かめれば採否を決められるのか、それを伺いに来ました」
フェルスターは少し意外そうな顔をした。
ローヴェン商会にいた頃なら、ここで相手の決裁の流れを読み、誰を先に口説けば話が通るかを計算していた。その手順は今も頭に浮かぶ。けれど、ここで使えるのはベル商店の名前と、手の中の紙だけだった。
*
その夜、リディアは樽屋の二階で、最初に書いた資料を半分ほど破り捨てた。
個人に売るための書き方になっていたからだ。眼鏡が誰のものか、という問いがすっぽり抜けていた。
個人が自分の金で買うなら、持ち主は一人で、壊しても落としても本人の問題で済む。組合が備品として買えば話が変わる。誰が保管するのか。誰に貸し出すのか。三番の眼鏡を三番の会員が使い終えたら、次の三番の人に回すのか。返さない者が出たら、壊れたら、どの番手も合わない会員が出たら、どうするのか。
そこまで書き出して、リディアは筆を止めた。どれも、ベル商店が答えを決めていい問題ではない。
彼女は新しい紙に二つの欄を作った。左には、ベル商店とノルド工房が責任を負うことを書いた。売価は一組十二枚。枠は蝶番付きでトビアスの作。通常使用で生じた製作上のつけ根の破損と鋲抜けは、三か月のあいだ無償で直す。修理の受付はベル商店。焦点と泡と歪みの判定はノルド工房。いま組にできるレンズは三組分しかないこと、その三組分も個人の十二人への供給を優先する予定で、組合向けの追加在庫ではないことも、ここに書いた。
右の欄は空けておいた。見出しは「組合が決めること」とした。保管者、貸出の手順、返却、破損時の弁償、合わない会員への扱い。
隣の窓の下で樽を転がす音がした。リディアは右の欄を見つめ、空白のまま渡すのは不親切だろうかと迷った。結局、選択肢を二つずつ書き添えるにとどめた。どちらにするかは組合が選ぶ。
*
評議の前の下審査には、セシリアも来た。
右手の親指の付け根に、布が薄く巻いてあった。リディアはそれに気づいたが、何も言わなかった。昨日、来てほしいと頼んだとき、セシリアは何を訊かれるのかを先に尋ねた。リディアが予想される質問を並べると、それを手帳に写して帰っていった。
評議員は六人いた。セシリアは読み札と試験枠を机に置き、測定済みの試作レンズで三番と四番の見え方を試してもらった。短い実演のための品で、終われば工房へ持ち帰る。老いた評議員の一人が、細字の行を指でたどり、しばらく黙りこんだ。
それから質問が続いた。
「同じ眼鏡を、二人で使い回しても害はないのかね」
「同じ番手なら、焦点の測定基準は同じです。でも、見え方まで同じとは限りません。使う方ごとに仕事の距離で試して、枠の当たりも確かめます。合わない方に使わせることはできません」
「夜、蝋燭の明かりで使っても大丈夫か」
「硝子は光を増やしません。暗いところで細かい字を読むつらさは、眼鏡では消えません」
別の評議員が身を乗り出した。
「十年使い続けたらどうなる」
セシリアは一拍おいた。
「分かりません。まだ十年使った人がいないので」
部屋が少し静かになった。リディアは口を挟まなかった。代わりに言い繕いたくなる気持ちを抑えて、手元の紙に目を落とした。ここで技術の答えを出していいのは、自分ではない。
「分からないことは、分かったときに知らせます。オズワルドさんの帳面と同じように、使う人の記録を取って」
セシリアがそう続けると、質問をした評議員は小さくうなずいた。
最後にリディアが資料を配った。実演の日取り、オズワルドの承諾を得て載せた試用の数字、価格、いまの製造量、遅れた場合の扱い、修理の窓口。右側の空欄を見て、評議員の何人かが顔を上げた。
「これは、わたしたちが埋めるのか」
「はい。組合の備品になるなら、使い方を決めるのは組合の皆さんです。わたしたちが決めてしまえば、それはわたしたちの都合になります」
フェルスターが評議員たちを見回した。
「眼鏡の導入を、次の正式評議の議題とすることに異議は」
異議は出なかった。
ただ、会計役の評議員が手を挙げた。
「議題にするのはいい。だが、このままでは予算は通せない。三十組のうち何組かが誰にも合わなかったら、その分の金はどうなる。返せるのか、交換するのか、そのとき誰が損をかぶるのか。ここに書いてあるのは、壊れたときの話だけだ」
リディアは自分の紙を見下ろした。修理の行はあった。だが、合わない眼鏡を返すときの行がなかった。
「次の評議までに、検証した数字をお持ちします」
会計役はそれ以上言わず、腕を組んだ。
*
組合の建物を出ると、港から湿った風が吹いてきた。
セシリアは包帯を巻いた手をそっと握ったり開いたりしていた。
「十年のこと、本当に分からないのよ」
「分からないと言ってくださって、助かりました」
セシリアは横目でリディアを見た。
「あなたも、返品の行を書き忘れていたわね」
「はい」
言い訳はしなかった。セシリアはそれ以上責めもせず、工房への道を歩き出した。
「合わなかった眼鏡を戻すとして、そのレンズがもう一度売れるかどうかは、わたしが確かめる。傷を見て、焦点台にかけ直して」
「その手間がいくらかかるかを、わたしが見積もります」
並んではいなかった。それでもしばらくのあいだ、二人の歩く方向は同じだった。
リディアは紙束の右下に、新しい行を書き足した。返品と不適合の費用負担。その横の欄は、まだ埋められない。




