第13話 顔を上げると、ぼやける
試用に使うレンズを、セシリアは自分で選んだ。
工房の棚には、合格した九枚が番手ごとに布に包んで並べてある。左右の組になるのは三組分。どれも、まず十二人へ届けるために確保しているものだ。
「勝手には使えないわね」
「はい。ですから、持ち主になる方に先に伺いました」
リディアは二通の書付を卓に置いた。一通目はヘルマンのもので、三番の組を、渡される前に組合の作業場で自分が試すことに同意している。二通目は刺繍のイルザ。四番の組を、組合の老写字生が二日間借りることを認め、そのあとセシリアが検査して問題がなければ受け取る、問題があれば作り直しを待つ、と書いてあった。
「イルザさんは、わたしの番は後でいいと言ったでしょう、とだけおっしゃいました」
セシリアは二通を読み、署名を確かめた。
「試用で傷んだら、検査して、その状態も本人に見てもらいます。受け取りたくないと言われたら作り直す。その分は誰が持つの」
「ベル商店です。試用はこちらから頼んだことなので」
貸出しの条件は、組合長のフェルスターと決めてあった。期間は二日。眼鏡は組合の作業場から持ち出さない。終われば箱に戻し、使った刻と気づいたことを紙に書く。歩くときや遠くを見るときは外し、休憩を挟む。痛みや目眩が出たら、時間に関係なくすぐに外す。
フェルスターが試用者に選んだのは、ヘルマンと、ライムントという年寄りの写字生だった。読み石を使って十年になるという。
*
組合の作業場は、北向きの窓に沿って机が並んでいた。
セシリアは壁際の腰掛けに座り、二人の手元を見ていた。研磨台には今日は触れていない。親指の付け根の熱はまだ引かず、焦点台の目盛りを読むことだけを自分に許していた。レンズの取り付けはカールに任せた。
ヘルマンは手本の写本を左に、白紙を右に置き、左手で定規を押さえて右手で筆を走らせていた。読み石なら、片手で石を動かしながら行を追うことになる。字を写すあいだは石を置いて、手本と紙を何度も見比べなければならない。眼鏡なら両手が空く。
「前より、行を飛ばさなくなった」
ヘルマンは顔を上げずに言った。
セシリアは、彼の顔と紙のあいだの距離を目で測った。肘から指先ほどの長さよりも、少し近い。前にリディアが作業場で書き留めた数字とほぼ同じだった。この距離なら三番で合う。
ライムントは違った。
最初の半刻は黙々と書いていた。四番の眼鏡越しに細字をなぞる指が、次第に速くなる。セシリアは帳面に刻を書き入れた。
戸口で、若い会員がライムントの名を呼んだ。
老人が顔を上げた。そのまま眉を寄せ、目を細めた。
「誰だ」
声の主は戸口から三歩ほどしか離れていなかった。ライムントは椅子から立ち、眼鏡を掛けたまま棚の方へ歩き出した。二歩目で机の角に腰をぶつけ、手をついた。
「歩くときは外して」と声をかけ、セシリアは老人の傍へ寄った。ライムントは眼鏡を額の上に押し上げ、何度か瞬きをした。腰は大丈夫だと答えてから、戸口の若者に返事をした。
席に戻ったライムントは、額の眼鏡を下ろそうとして、つるの片方に指をかけた。
「これは、遠くが駄目だな」
「はい」
セシリアは近づいて、老人の机の横に膝をついた。
「近くの字を大きく、はっきり見せるための硝子です。遠くを見るには向いていません。顔を上げるときと歩くときは、外していただくのがいちばん安全です」
「いちいち外すのか」
「額に上げると、つるが開いて曲がります。首から紐で下げるか、机に置く場所を決めておくか。どちらがいいかは、ライムントさんの仕事のしかたで変わります」
老人はしばらく眼鏡を見つめ、それから机の右の隅を指で叩いた。
「ここに置く」
セシリアはその場所を帳面に書いた。
二日目の夕方、ライムントの紙には、三刻を過ぎたあたりで目の奥が重くなったと書いてあった。ヘルマンの紙には、鼻のつけ根が少し赤くなったとだけあった。
*
工房に戻ると、セシリアは二組を箱から出した。
まず、レンズを枠から外す。光にかざして、泡と傷を見る。ヘルマンの三番は二枚とも、出したときと変わらなかった。焦点台にかけると、窓枠の像は前に刻んだ目盛りの上で締まった。
ライムントが使った四番の右側に、縁の近くに一本、髪の毛ほどの細い擦り傷があった。机に伏せて置いたときについたのだろう。
セシリアは読み札を当て、傷の位置が視線の通る場所にかかるかを見た。かからない。焦点台でも、窓枠の像は崩れなかった。もう一度、別の日に測り直してから決めることにして、帳面に印をつけた。
枠のほうは、左のつるがわずかに外へ開いていた。額に押し上げたときの癖だ。蝶番もつけ根も無事だから、トビアスの作りの問題ではない。指で戻せば済むが、何度も繰り返せば金属は疲れる。
セシリアは帳面の新しい頁に、三つの見出しを書いた。
そのまま使えるもの。直せば使えるもの。二度と人に渡してはいけないもの。
三つ目の欄は空いている。けれど、傷が深く視線にかかっていれば、ライムントの四番はそこに入っていた。
*
夜、リディアが来て、帳面を読んだ。
彼女は三つの欄を指でなぞり、自分の紙に何かを書いて、しばらく黙っていた。
「組合が三十組を買ったとして、合わない方が何人出るかは、まだ誰にも分かりません」
「分からないわ」
「ですから、多めに考えます。三組が戻ってきたとして、検査と枠の直しにかかる手間。一組のレンズが使えなくなったとして、その作り直し」
リディアは紙をセシリアのほうへ向けた。三十組なら、一組一枚と少しの引当は三十六枚。戻る三組を検査し、軽く枠を直す費用を一組一枚、計三枚と仮置きする。そのうち一組のレンズを丸ごと替えるとして卸代六枚半。ここまでで九枚半だった。
ただし、枠まで新調する場合や、返品代金を先に返して品物が売れ残る場合は別だ。試用二組から、三十組の戻り方までは分からない。三十六枚は足りると決まった金ではなく、最初に備える額だった。
「十二枚の値は動かしません。引当はもう値段の中に入っています。これを別に上乗せすれば、同じ費用を組合に二度払わせることになりますから」
「全部の返品を引き受けるわけじゃないのね」
「引き受けたら、引当では足りなくなります。そうなったら、いつかどこかで誰かに無理をさせることになる」
リディアは別の紙を出した。
番手が仕事に合わなければ、渡してから決まった日数のうちは、別の番手と無償で取り替える。どの番手も合わず、病気や左右の差が疑われる会員は、施療院へ回す。その一組は傷がなければ組合が返品でき、セシリアが検査してから代金を戻す。泡や歪み、番手違いはノルド工房の責任。通常使用で生じた枠の製作上の不具合は三か月のあいだトビアスが直す。落としたり踏んだりした破損は、実費で修理する。受付はすべてベル商店。誰に貸し、どこにしまい、返ってきたかを記録するのは組合。
セシリアは一行ずつ読んでいった。
引当の行の横に、小さな字で書き添えてあった。損失ではない。使い続けてもらうための費用。
リディアが見ていないことを確かめてから、セシリアはその字を見つめた。父が無償で読み石を直していた頃、帳場の誰かがこう書いてくれていたら、と思った。思っただけで、口にはしなかった。
「額に上げないように、という行を足して」
セシリアは言った。
「歩くときは外すこと。こまめに休み、目の奥が重くなったら、使い始めたばかりでも外すこと。それと、渡すときにわたしが一人ずつ掛けてもらって、枠の当たりを見ること。同じ四番でも、ライムントさんとイルザさんでは顔の幅が違う」
リディアは書き足した。それから、少しためらってから言った。
「ライムントさんが机にぶつかったこと、資料に書いてもいいでしょうか。ご本人には、明日伺います」
「書いて」
セシリアは即答した。
「あれがいちばん大事なところよ。良いことだけを書いた紙を、誰が信じるの」
リディアは目を伏せて、短く笑った。何がおかしかったのか、セシリアには分からなかった。
*
翌日、ライムントは自分の名を出すことを許した。ただし、ぶつけたのは腰ではなく机のほうだと書け、と言ったらしい。
資料は四枚になった。眼鏡で楽になったこと、遠くが見えにくくなること、試用で起きたこと、戻ってきた眼鏡をどう検査するか、誰が何を引き受けるか。最後の一枚には、一組十二枚という値と、その中に交換の費用まで含まれていることを書いた。
イルザの四番は二日後にも測り直し、傷の深さと見え方を確かめた。縁の浅い擦り傷は視野にかからず、割れにつながる傷もなかった。セシリアは試用済みと記したうえでイルザに現物を見せ、新しいものを待てることも伝えた。
「これで見えるなら、わたしはこれをもらうよ」
仕事の距離で試した本人の返答を記してから、セシリアはその組を、イルザの名札と一緒に箱へ戻した。
リディアは資料の束を揃えて、紐で綴じた。
「これで、組合の皆さんが自分たちで決められます」
「決めてくれるかしら」
「分かりません」
リディアはそう言って、セシリアの言い方を真似たことに自分で気づいたように、口をつぐんだ。
正式な評議は七日後だった。会計役がこの四枚をどう読むのかは、まだ誰にも分からない。




