第14話 六十枚の約束
正式評議の朝、リディアは資料の束をもう一度数えた。四枚綴りを九部。組合長と六人の評議員の分より二部多いのは、傍聴する会員が手に取れるようにするためだった。
写字生組合の大広間には、長机が鉤の字に並べてあった。正面にフェルスター、その左右に評議員が六人。壁際の長椅子には、仕事の手を止めて来た会員が二十人ほど座っている。オズワルドは後ろの列にいた。
リディアとセシリアの席は、評議員の机から少し離れた小さな卓だった。売る側が座る位置としては正しい、とリディアは思った。
フェルスターが木槌を一度鳴らした。
「眼鏡の購入について。まず、売り手の説明を聞きます。質問は説明のあとに」
リディアは立ち上がった。
昨夜までに何度も頭の中でなぞった言葉を、彼女は半分ほど削って話した。眼鏡を使うと、両手を空けたまま細字を追えること。それから、遠くを見るときには合わなくなること。
「試用中、ライムントさんは眼鏡を掛けたまま席を立ち、机の角にぶつかられました。ご本人のお許しを得て、そのまま記しております」
壁際で小さな笑いが起きた。ライムントが前の列で振り返り、ぶつけたのは机のほうだと言った。笑いがもう少し大きくなって、すぐに静まった。
リディアは笑わなかった。
「眼鏡は、目を治すものではありません。近くを見るための道具です。合う方と合わない方がいます」
技術の説明は、セシリアに代わった。彼女は試験枠を手にして、番手の違いと、一人ずつ掛けて確かめる理由を短く話した。こまめに休み、不調があれば時間に関係なく外すこと。歩くときは外すこと。額に押し上げるとつるが開くこと。自分の手で枠を傾けて見せながら説明した。
右手の親指には、まだ布が巻いてあった。
*
質問は、やはり会計役から始まった。
「三十組を買って、合わない者が出たとする。その眼鏡は返せるのか」
「お渡しの日から定めた日数のうちに、仕事に番手が合わないと分かれば、別の番手と取り替えます」
リディアは資料の三枚目を開くよう頼んだ。
「どの番手も合わず、施療院で診ていただくべきだと判断された方の分は、傷がなければ返品をお受けします。ノルド工房が検査したうえで、代金をお返しします。取替えが先、返品は取替えで済まないときだけです」
「全部ではないのか」
「全部をお約束すれば、わたしはどこかで嘘をつくことになります」
会計役は眉ひとつ動かさなかった。
「では、壊れた場合は」
「泡や歪み、番手の誤りはノルド工房の責任です。通常使用で生じた枠の製作上の不具合は、三か月のあいだトビアスさんの負担で直します。落とした、踏んだ、というときは実費の修理になります。修理の受付はすべてベル商店で引き受けます」
「その取替えの費用は、十二枚とは別に請求されるのか」
「いいえ。一組の値段の中に、取替えのための分を一枚あまり入れてあります。三十組で三十六枚。検査と軽い調整で戻せる三組、そのうち一組のレンズ交換を見込んだ試算です。二組の試用だけで、戻る数を言い切ることはできません。商店の保証分が足りなければベル商店が負担します。製作上の欠陥は、先ほどの分担どおりです。組合に追加で請求はしません」
会計役は手元の紙に何かを書き込んだ。
別の評議員が手を挙げた。若い写字生で、自分はまだ読み石もいらない年だと前置きした。
「十二枚あれば、組合の積立から別のことができる。紙の共同仕入れでも、病人の見舞金でも。どうして眼鏡なんだ」
フェルスターはリディアのほうを見なかった。評議員たちを見回した。
答えたのは、ライムントの隣にいた年配の評議員だった。
「去年、差し戻しが倍になった。二人辞めた。辞めた二人は、腕が落ちたんじゃない。目だけが落ちた」
「それなら各自が買えばいい」
「十二枚を一度に出せる写字生が、この中に何人いる」
広間が静かになった。
リディアは口を挟まなかった。個人で買う場合と組合で備える場合の違いは、資料の二枚目に書いてある。保管の手間も、貸出しの記録も、合わない会員が出たときに誰が施療院へ付き添うかも。それを読んだうえで、評議員たちが自分たちで秤にかけているのだった。
オズワルドは後ろの列で黙っていた。一度も手を挙げなかった。
*
採決の前に、納期も確かめられた。セシリアが窓硝子の予定と重ねた表を出す。今期分の仕上げに間に合う半日枠は、あと六回。小さな坩堝を使い、先の素体を別の箱で冷ましている間に次を溶かす計画だった。炉と研磨台を同時に占めないよう、ヨハンとカールの持ち場も記してある。
「少量では十枚から六枚通りました。量を増やしても同じ割合になるとは、まだ言えません」
セシリアはそう断った。検査を省かず、遅れが見えたら知らせる。未納分は返金を求められる。その条件まで確認してから、採決は挙手で行われた。
賛成五、反対一。反対したのは若い評議員で、彼は手を下ろしてから、議事録に自分の理由を書いてほしいと言った。積立の使い道は、毎年見直すべきだ、と。フェルスターはそれを書記に書き取らせた。
「写字生組合は、眼鏡三十組を一組十二枚、総額三百六十枚で購入します」
木槌の音は、さっきより少しだけ重く響いた。
*
契約書は、その日の午後に公証人の部屋で読み合わせをした。
三十組のうち十八組は今期中に、残りの十二組は次の期に納める。どちらも、納めた日に組合が数と番手とレンズと枠を検め、合格したものだけを納品と認める。遅れそうなときは分かった時点で知らせ、新しい日を相談する。期の終わりまでに納められなかった分の前金は、組合が望めば返す。
前金は総額の半分、百八十枚。最初の十八組の検収で残りの百八枚を、次の十二組の検収で七十二枚を支払う。
公証人が読み上げを終えると、リディアは自分の名前を書いた。ベル商店、リディア・ベル。
続いて、セシリアの前に別の一枚が置かれた。ノルド工房がベル商店へ納めるレンズについて、品質と番手の責任を自分が負うことを確かめる書付だった。契約の当事者はあくまでベル商店で、工房はその製造者として名前を連ねる。二つの店を一つにする書類ではない。
セシリアはペンを取った。布を巻いた右手で、一字ずつ、ゆっくりとノルドの名を書いた。最後の一画で少しだけ手が止まったが、彼女は書き直さなかった。
組合の会計役が、革袋を卓に置いた。
公証人の立ち会いのもとで、リディアは銀貨を十枚ずつ積んで数えた。十八の山。百八十枚。受領書に署名すると、袋の重さが掌に移った。
嬉しかった。それを隠すつもりはなかった。退職した日から今日までで、自分の店に入った最初のまとまった金だった。
けれど樽屋の二階に戻ると、彼女はまず帳面を二冊に分けた。
一冊目に百八枚。今期の十八組に充てる前金だ。二冊目に七十二枚。次の期の十二組のためのもので、まだ何も渡していない相手から預かった金だった。表紙に、組合に返すかもしれない金、と書いた。
どちらも商店が受け取った前金で、製造や仕入れに使うことはできる。だが、納める義務も、間に合わなければ返す義務も一緒に引き受けた。利益として数える金ではなかった。
*
日が傾いてから、リディアは工房へ行った。
セシリアは炉の脇の卓で、製造の予定表を広げていた。その横に石板。合格したレンズの数が、番手ごとに書いてある。三番が四枚、四番が三枚、二番と五番が一枚ずつ。
「今期に渡すのは、個人の方が十二組、組合が十八組」
セシリアは誰に言うでもなく言った。
「三十組。レンズにすると六十枚」
リディアは石板の数を足した。九。
セシリアは予定表を指でたどった。六つの半日枠がある。前の少量試験では、十枚の素体から合格が六枚だった。その数のままでは、六回焼いても三十六枚にしかならない。手元の九枚を足しても足りなかった。
「坩堝に入るだけ増やせば、そのまま良品も増えるとは限らない」
セシリアは言いかけて、指を止めた。
「番手が揃わなければ、組にならない。三番ばかり出たら、四番の人を待たせることになる」
リディアは自分の帳面を開いた。百八十枚の前金がある。十二人の保証金も、公証人の手元にある。最初の返済の百六十八枚は、期の終わりにセシリアが払う。
金はある。炉の時間と、合格する硝子の数が足りない。
「カールさんに残ってもらう日を増やすのは」
口にしてから、リディアは自分で首を振った。研磨の手を増やしても、素体の泡は減らない。それは、この前セシリアが帳面で見せてくれたことだった。
セシリアはしばらく予定表を見つめていた。それから、炭で余白に何かを書いた。
「足りないのは、磨く手じゃない。溶かしたときに残る数よ」
彼女はリディアのほうを見た。
「前金の帳面、あとで見せて。わたしが何枚作れなかったら、あなたが何枚返すことになるのか、知っておきたい」
リディアはうなずいて、二冊の帳面を卓に置いた。
窓の外で、炉の口が赤く脈打っていた。今は窓硝子の火だった。




