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婚約者より私を優先する幼馴染へ。私はあなたの婚約者と、眼鏡の商売を始めます――透明なだけの硝子が商都を変えるまで  作者: 他力本願寺


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第08話 耳の上の重さ

オズワルドの耳の付け根には、赤い筋が一本残っていた。


「三日目の昼から、ここが痛み出しましてな」


 老写字生は工房の作業台の前に座り、左耳の上を指でなぞった。鼻の両脇にも、楕円の跡が薄く浮いている。セシリアが預かっていた眼鏡を布から出すと、オズワルドは少し申し訳なさそうに目を伏せた。


「見え方には文句がないのです。ただ、写しの途中で顔を伏せると、するりと下がる。押し上げると今度は鼻が痛い」


「掛けてみせていただけますか。少しだけでかまいません」


 リディアが頼むと、オズワルドは眼鏡を掛けた。机に紙を置き、写字の姿勢で背を丸める。三つ数えるうちに、枠が鼻の上を滑った。細い鼻橋が小鼻の脇に食い込み、真っすぐなつるの先は耳の後ろまで届いていない。上から押さえているだけだった。


 セシリアはすぐに眼鏡を外させ、枠を光にかざした。


「父の鼻は細かったんです。顔も、オズワルドさんよりずっと小さかった」


 声は平らだった。指先だけが、鼻橋の曲がりを確かめるように何度も往復していた。


「レンズ単体の焦点は、測り直しても幅に入っています。でも、顔の上で位置が動く。それでは眼鏡にならない」


 リディアは帳面に「圧迫:左耳上、両小鼻。前屈で下がる」と書き、少し迷ってから一行足した。「レンズ不良ではない」。その一行を書いても、気持ちは軽くならなかった。痛みが出るまで使って、知らせに来てくれた客がいる、という事実のほうが重かった。


「直せますか」


 セシリアはしばらく黙ってから、首を横に振った。


「硝子なら、どこが悪いのか一晩でも説明できます。でも真鍮は違う。この枠は、父が通りの細工師に頼んでいたものです。わたしが曲げれば、たぶん形は変わります。でも、どこを曲げれば痛くなくなるのかは分からない」


 できないことを、言い訳も付けずにできないと言う。この人のそういう言い方を、リディアは何度か聞いていた。


「その細工師の方は」


「三年前に亡くなりました。ただ、最後の職人が鍛冶通りで独立したと聞いています。トビアスという人です」


    *


 トビアスの店は、間口一間の狭い仕事場だった。壁には真鍮の線材が太さの順に掛けてあり、作業台には錠前の部品と蝶番が並んでいる。二十を少し過ぎたくらいの青年が、ヤスリを置いて顔を上げた。


「ノルドの親方の枠か。うちの師匠のだ」


 トビアスは枠を受け取ると、天秤にのせ、それから鼻橋に指を当てた。


「重い。昔の師匠は、とにかく丈夫に作れって言われてたからな。鼻橋は狭いし角が立ってる。つるが短いうえに真っすぐだから、耳で支えられない。顔を伏せたら落ちるに決まってる」


 オズワルドの横顔を何度か見て、彼は紙に線を引いた。


「鼻に当たるところを広く平らにして、面で受ける。つるを長くして、先を耳の後ろへ沿わせる。それから蝶番を付ける」


「蝶番は必要ですか」


 リディアは自分の帳面を開いた。


「一体型でお願いできないでしょうか。最初のお客様は、仕事を続けるために銀貨十二枚を出してくださる職人さんたちです。わたしの側の取り分は一組一枚と少ししかありません。枠を安くできれば、交換や不測の出費にもう少し余裕が持てる」


 トビアスは首を振らず、引き出しから一体型の見本を出して机に置いた。


「一体なら一組一枚半でいい。線を曲げて、ろう付けして終わりだ。軽くもできる」


 それから、見本のつるを指で少し開いてみせた。


「ただし、掛けるたびにここが開く。毎日なら、ひと月で付け根が弱る。折れたら全部作り直しだ。鼻が合わなくても調整の余地はほとんどない。この爺さんの顔に合わせたものは、別の誰かには合わない」


 次に彼は、作りかけの蝶番を指先でつまんだ。


「蝶番を入れれば、つるは畳める。懐にしまっても曲がらない。折れても、つる一本と軸の鋲を替えればいい。鋲は叩き出せる作りにする。鼻当ては板を分けて、あとから広げたり狭めたりできるようにする。手間がかかるから、二枚半だ」


 リディアは数字を並べた。一体型で一枚半、蝶番付きで二枚半。差は一枚。一組あたりの取り分が倍近く変わる。


 けれど、その横にもう一つ数字を書いてみた。交換引当の一枚と少し。一体型が折れたら、新しい枠代一枚半がまるごと消える。痛みが出れば、合わない枠を最初から作り直すしかない。蝶番付きなら、つる一本の交換で済む。鼻当ても、店先で広げられる。


「――使う人の痛みを、わたしは原価の外に置いていました」


 ペン先を止めて言うと、トビアスは少し意外そうな顔をした。


「安いものを作れって言う客は多い。そう言って考え直す客は、あんまりいない」


「考え直したのは、オズワルドさんの耳を見たからです」


 後ろでセシリアが、聞こえるか聞こえないかの小さな息をついた。笑ったのか呆れたのか、リディアには分からなかった。


    *


 条件は、その場で書面にした。


 枠は蝶番付き、一組銀貨二枚半。材料の真鍮はトビアスが自分で用意する。そのかわり、十組ごとに納め、セシリアとリディアが検めたら、その場で代金を払う。最初の一組はオズワルドの顔に合わせた有償の試作品とする。採用になれば三十組のうちの一組目として検収し、先に払った試作代はその枠代へ充てる。三十組分の正式な注文書は、ベル商店の鑑札が交付された日に取り交わす。


「つるの付け根が三か月以内に割れたり、鋲が抜けたりしたら、俺の責任で直す」


 トビアスが言った。


「落としたとか踏んだとかは別だ。そっちは修理代をもらう」


「修理の受付はベル商店で引き受けます」


 リディアは書き足した。


「お客様の窓口はわたしです。作りの欠陥ならトビアスさんへ回す。通常使用で商店の保証に当たるものは、こちらで費用を持つ。落としたり踏んだりした破損は、お客様に修理代をいただいて、こちらからお支払いする」


「レンズの曲がり、焦点、傷や泡の判断はわたしがします」


 セシリアは淡々と続けた。


「枠のせいで中心がずれた場合も、合否はわたしが見ます。枠の形と強さは、トビアスさんが決めてください」


「売値と説明は、わたしが決めます」


 三人の名前が並んだ紙を見て、トビアスは鼻の頭をかいた。


「師匠が死んでから、眼鏡の枠の注文なんて一つもなかった。錠前の合間にやる仕事じゃなくなるかもしれないな」


「三十組がきちんと売れて、直しながら使われたら、ですね」


 リディアは約束しすぎないように言った。トビアスは「十分だ」と答えた。


    *


 二日後、試作の枠が工房に届いた。


 前の枠より、はっきり軽かった。鼻当ては指の腹ほどの幅で平たく、つるの先は耳の後ろへ柔らかく曲がっている。セシリアがレンズを外して新しい枠にはめ、光にかざして中心を確かめてから、オズワルドに渡した。


 老人は掛けて、写字の姿勢を取った。顔を伏せる。もう一度伏せる。枠は落ちなかった。


「……鼻は、楽ですな」


 そう言ってから、オズワルドは左耳に触れた。


「ここが、まだ少し当たります」


 トビアスはすぐに眼鏡を受け取り、左のつるの曲がりを指の幅ほど浅くした。もう一度掛けさせ、四半刻、写字台で紙を写してもらう。外したあとの耳を、セシリアが見た。赤みは残っていなかった。鼻の脇には、うっすらと跡がある。


「痛みますか」


「押せば分かる程度です」


「では、すぐに一日中は使わないでください」


 セシリアは言った。


「三日間、一刻ずつにして、毎晩跡を見てください。痛みが出たら、そこで外して持ってきてください」


 貸与の書付も開き直した。まず三日後に再確認し、問題がなければ使用時間を少しずつ延ばす。返却日は調整した今日から十四日後とし、続けて借りる場合は、そのつど状態と期限を確かめる。


 リディアは帳面に、調整の箇所、四半刻後の状態、三日後に再確認する日付を書いた。今日、痛みが出なかった。分かったのはそれだけだった。何週間も使って安全かどうかは、まだ誰にも分からない。


 帰り際、オズワルドは新しい枠を布に包みながら、蝶番を一度だけ畳んでみせた。


「壊れても直せる、というのは、年寄りには何よりありがたいのですよ。新しいものは買えても、慣れたものを捨てるのはつらい」


 リディアはその言葉を、台帳には書かなかった。代わりに、値付けの欄の端に小さく「修理できること」と書いた。


    *


 翌日の夜、リディアは工房に寄った。セシリアから次の溶解の予定を聞くためだった。


 窓硝子の炉の脇では、二日前に成形したレンズ用の素体が、徐冷を終えていた。徐冷の箱の前で、セシリアが黙って立っていた。


「セシリアさん」


 返事はなかった。セシリアはランプの光に、丸い素体を一枚かざしていた。


 細かな粒が、硝子の中に散っていた。一つや二つではない。光にかざすと、小さな泡が星のように浮かび上がっている。


 セシリアは次の一枚を取った。そこにも泡があった。その次にも。


「……前の溶解では、こんなことはなかった」


 ようやく出た声は、ひどく静かだった。作業台には、冷えた素体が並んでいる。ランプの光を受けて、どれも透明に見えた。

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