第07話 刻まない番号
夜明け前の工房は、炉の唸りだけがしていた。
セシリアは作業台に、父の木箱の五組十枚と、引き出しに保管していた三番と五番を一枚ずつ並べた。全部で十二枚ある。オズワルドに貸している眼鏡の二枚は、新しく溶かして作ったもので、ここには含めていない。
昨日、壁に炭でつけた二つの印は、指一本分ずれていた。
最初に疑ったのは曲面だった。父が使っていた真鍮の当て型を出し、三番の二枚に順に当てて、隙間を灯りに透かす。どちらも光は漏れなかった。同じ皿で、同じ深さに磨いてある。
それなら、違うのは硝子のほうだ。
父の記録帳をめくった。几帳面な字で、レンズごとに溶かした日と灰の仕入れ先が書いてある。像が手前で結んだほうの三番は、父が亡くなる前の冬に溶かしたものだった。その冬は灰が足りず、いつもの山村ではない炭焼きから買い足している。
同じ形に磨いても、硝子が違えば光の曲がり方が変わる。父も知っていたはずだ。だから自分の目で一枚ずつ確かめ、刻みを入れた。けれど、父の目はもうない。
セシリアはしばらく記録帳を見つめてから、閉じた。
*
壁に炭で印をつけるやり方では、測るたびに手の高さが揺れる。光の具合で、像の鋭さの見え方も変わる。
彼女は窓硝子を切るときに使う長い定規板を、作業台に寝かせた。窓を何百枚も切ってきた板で、目盛りは父が刻んだものだ。一方の端に古い真鍮の輪を立てる。研磨台の部品だったもので、レンズがちょうど収まる。残った窓硝子の枠材を削って、板の溝を滑る小さな台を作り、白い漆喰を薄く塗った板を立てた。
板を窓へ向ける。通りの向こうでは、倉の白壁に黒い格子窓が並んでいる。輪にレンズをはめ、白い板を手前へ滑らせていくと、格子窓が逆さに小さく浮かび上がった。いちばん鋭く見えたところで台を止め、目盛りを読む。
材料はすべて工房の端材で、買い足したのは釘が数本だけだった。向かいの窓は無限に遠いわけではない。同じ場所の像を使い、まずは玉どうしの差を繰り返し比べられるようにする。
一枚を三度ずつ測った。三度とも目盛り一つ以内に収まるのを確かめてから、次の一枚に移った。
昼前には、十二枚すべての数字が帳面に並んだ。
刻み一つのものは九十八と百二。二つのものは六十六と六十九。三つのものは五十一、五十、四十八。四つは四十と四十一。五つは三十三と三十四と三十六。
三番のうちの一枚、四十八は、例の冬の硝子だった。もう一つ、五番の三十六も同じ冬の硝子だった。父の手は同じ形を磨いていた。違っていたのは中身だ。
セシリアは、数字の列をもう一度上から読んだ。番号どうしの差に比べれば、この揺れは小さい。けれど、刺繍工房のイルザは指先ほどの距離で針を見ていた。あの人に四十八を渡すのか、五十一を渡すのか。それは小さな違いでは済まない。
*
午後、戸口に影が差した。
リディアは入り口で足を止め、作業台の上の板と、帳面の数字の列を見た。セシリアが顎で示すと、ようやく中へ入ってきた。
「これは、何を測っているんですか」
「像がいちばんはっきりするところまでの長さ。これが短いほど、強い玉になる」
セシリアは三番の二枚を順に輪へはめ、白い板を滑らせて見せた。リディアは目盛りを覗きこんだが、板には触れなかった。
「五十一と、四十八」
「同じ当て型で磨いて、同じ刻みが入っている。中の硝子が違うの」
リディアは帳面の列を指でたどった。途中で一度止まり、それからまた動いた。
「この数字は、お客には言えません」
「わかってる」
「言えないから、名前が要ります」
リディアは自分の帳面を開いた。昨日の帰りに作った、仕事と距離の欄がある紙だった。
「数字の幅ごとに、番号をつけるのはどうでしょう。たとえば四十八から五十二までを三番と呼ぶ。お客は三番を選ぶ。次に買い替えるときも、壊れて交換するときも、三番と言えば同じ測定基準のものを選べる。ただし、買い替えのときにも、その人の仕事の距離で掛け直してもらいます。こちらの帳面には、その番号のレンズを何枚持っていて、何人が待っているかを書く」
「幅は、わたしが決める」
「お願いします。わたしには、どこまでなら同じと言っていいのかがわかりません」
答えに迷いはなかった。セシリアは帳面に目を戻した。五十から外れて許せるのはどこまでか。イルザの手元と、ヘルマンの傾斜机を思い浮かべる。父の刻みの間隔と、今朝の三度の測定のばらつきを並べて考える。
「五十を真ん中にして、上下に二まで。ほかの番も、真ん中の数字を先に決めて同じだけ幅を持たせる。百、六十七、五十、四十、三十三」
言葉にしながら、セシリアは数字を書き出していった。幅に入らない玉は、どの番号にもしない。
「三十六の五番は、外れますね」
「外れる。四十八の三番は境目だから、もう一度測って、掛けて確かめるまで保留にする。幅も、まだ仮よ」
リディアが、ほんの少し眉を寄せた。十二枚のうち使えるのは何枚か。それを数えている顔だと、セシリアにはわかった。数える人なのだ、この人は。
「読み札も、番号に合わせて作り直します。会所では、お客が自分の目で選んだ玉を控えていました。これからは、仕事の距離で札を持ってもらって、何番で一番楽に読めたかを書く。札の字の大きさも段階を揃えて、どこの会所で試しても同じ結果が出るように」
「札を読めたかどうかだけで決めないで。四半刻、掛けたままにしてもらって」
「欄があります。昨日、あなたに言われました」
リディアは紙の端を指で叩いた。言われたことを、言われたとおりに覚えている。セシリアは返事をしなかった。
*
日が傾くまで、二人は作業台の両端で別々の仕事をした。
セシリアは輪の高さを調べ直し、板の滑りを蝋で整えた。規格外の一枚と保留の一枚には、炭で違う印をつけて別の箱へ移す。リディアは番号ごとの欄がある台帳の雛形を書き、ときどき顔を上げて数字を確かめに来た。けれど、測定には一度も手を出さなかった。
「一つ、決めておきたいことがあるの」
セシリアは研磨用の小さな鏨を手に取り、刃先を見た。
「この板で測って、帳面に数字を書いたレンズにだけ、番号を刻む。測っていない玉には、どれだけ自信があっても刻まない。わたしが磨いたものでも、父が磨いたものでも」
リディアは鏨を見て、それから帳面を見た。
「刻んだ番号と帳面の数字が、いつでも突き合わせられるように、ですね」
「誰かに聞かれたときに、勘だと答えなくて済むように」
父の刻みは、父の目そのものだった。それを疑ったつもりはない。ただ、父の目を持たない人間にも確かめられる形にしておかなければ、同じ三番を二度売ることはできない。
「わたしは、測られた番号しか売りません」
リディアは台帳の一行目の上に、その一文を書き入れた。
「あなたが測って、わたしが説明する。どちらかが欠けたら、お客には同じものだと言えない」
セシリアは鏨を置いた。その言葉にうなずくのは、まだ少し癪だった。代わりに、帳面を相手のほうへ押しやった。写していい、という意味だった。
*
戸口を叩く音がしたのは、片づけを始めた頃だった。
オズワルドが、布に包んだ眼鏡を手に立っていた。返却の日ではない。
「痛みが出たら来いと言われたからな」
老人は眼鏡を外して見せた。耳の付け根の上が赤くなっている。鼻の両脇にも、真鍮の当たった跡が細く残っていた。
「字はよく見える。帳簿を一日読んでも目は疲れん。だが、机にかがむとずり落ちる。押さえて書くと、今度は耳が痛む。一刻ごとに外して、耳を揉んでおる」
セシリアは眼鏡を受け取り、先に老人の顔を見た。それから、灯りの下でつるの曲がりと鼻当ての角を指でなぞった。
「玉も測り直します。まず、当たる場所を見せてください」
「玉は、よく見えると言っておる」
「ええ」
父の顔に合わせて曲げた枠だった。鼻の形も、耳の高さも、かがむ角度も、父のものだ。数日前にやすりを当てたくらいで、別の人の顔に合うはずがなかった。
セシリアは眼鏡を布の上に置いた。
「いったんお預かりします。直して確かめるまでは、使わないでください。痛む場所を記録させていただけますか」
老人の耳の上に、指で触れる。リディアは黙って帳面を開き、赤い跡の位置を書き写していた。
焦点の数字なら、板で測れる。けれど、真鍮が人の皮膚をどう押すかを測る板はない。セシリアは真鍮の細工を習ったことがなかった。
窓の外で、炉の火の色が変わった。




