第06話 読めることと、使えること
市庁舎の商取引係は、マルタの保証状を二度読んだ。それから、窓口の木枠ごしに書類をリディアへ戻した。
「保証は受け付けました。ですが、鑑札をお出しするのはこれからです」
「審査の日数を伺えますか」
「掲示が十日。そのあいだに異議が出なければ、商人組合の台帳に登録します。交付はその後です」
保証状は、審査の扉を開けてもらうための紙でしかない。扉の向こうで売り買いを許す紙は、まだどこにもなかった。係は事務的に付け加えた。
「交付前に代金や手付を受け取れば、保証人の名に傷がつきますよ」
「承知しています」
リディアは受付印のある控えを畳み、上着の内側へしまった。
掲示が終わるまでの十日で何ができるか、帰り道に数えた。誓約は十二件。工房への前払いに充てた八十枚は、すでにセシリアの帳簿に入っている。最初の返済まであと九十日足らず。それはセシリアの借金で、リディアが肩代わりするものではない。ただ、商店の注文が遅れれば、工房のレンズ代の入りも遅れる。
売価は十二枚と決めてある。炉が空くのは半日ずつ。それなら作る品を一つに絞り、誓約者をできるだけ早く番号ごとに振り分け、鑑札が下りた日に納期を示す。前世の工場でも、立ち上げの時期に品目を増やして良いことは一つもなかった。
港の樽屋の二階へ戻ると、リディアは試算を清書し、その足で工房へ向かった。
*
セシリアは窓硝子の検品を終えたところだった。リディアは戸口で待ち、手招きされてから中に入った。
「十二人を、お父上の五段階の玉で振り分けたいんです。会所で選んだ番号はもう控えてあります。番号ごとに数を出せば、炉の割り当てが組めます」
差し出した紙を、セシリアは最後まで読んだ。
「会所で、その人たちは何をしていた?」
「読み札を読んでいました」
「どのくらいの時間」
リディアは答えに詰まった。一人あたり、せいぜい四半刻だった。
「あれは、見えるかどうかを確かめただけ。あの人たちが毎日やっているのは、札を読むことじゃないでしょう」
セシリアは前掛けを外し、壁の釘にかけた。
「仕事場を見せてもらいに行きます。あなたは来てもいいし、来なくてもいい」
「行きます」
即答してから、リディアは自分の紙を見下ろした。職業名は控えてあるのに、実際にどんな姿勢で、何をするのかを書く欄がどこにもなかった。
*
セシリアは木箱のほかに、レンズを差し替えられる簡単な試験枠を持ってきた。見え方と姿勢を短く確かめるためのもので、売り物になる仕上げではない。
最初に訪ねたのは、オズワルドの同僚で写字生のヘルマンだった。会所の二階にある、傾斜のついた机の前で書いている。椅子は高く、紙と目のあいだは肘から指先までほどあった。
「会所では三番の玉がよく見えた。だが、ここに座るとな」
ヘルマンは三番を掛けて、背筋を伸ばした。それから少しずつ前へかがみ、紙との距離を合わせていく。
「こうすると読める」
「その姿勢で、一日に何刻ですか」
セシリアが尋ねた。
「朝の鐘から夕方までだ。昼に一度休む」
セシリアはそれ以上何も言わず、首の傾きと紙までの距離を、指の幅で測って帳面に書いた。
二軒目は川沿いの刺繍工房だった。誓約者のひとり、イルザは針を持つ手を胸のすぐ前に構えていた。紙ではなく、布の目を数える距離だ。ヘルマンよりずっと近い。
彼女も会所では三番を選んでいた。工房で三番を掛け、針を通して、しばらく縫った。
「見えます。見えるんですけど」
針を置き、イルザはこめかみを押さえた。
「ずっと覗きこんでいる気がして。会所では、こんなふうにはならなかったのに」
セシリアは父の木箱から四番を出し、掛け替えさせた。イルザの肩から、目に見えて力が抜けた。
三軒目は、仕立て屋の帳場を預かるアンナだった。台帳を書き、顔を上げて客の顔を見て、また台帳へ戻る。眼鏡を掛けたまま顔を上げると、客の顔がぼやけて見えた。
「あら。外さないと駄目なのね」
アンナは何度も眼鏡を外し、また掛けた。リディアの頭の中で、試算の一行が静かに書き直されていく。
四軒目は、アンナに紹介された新しい購入相談者だった。男は、右目では三番、左目では一番でも眩しいと言った。少し前から、左目の奥が重いのだという。セシリアは玉を木箱へしまった。
「これは、わたしたちの品で済ませていい目じゃありません。施療院で診てもらってください」
男は顔をしかめた。
「金なら払うと言ったじゃないか」
「だからです」
セシリアの声は静かだった。リディアは申込みの紙を鞄に戻し、保証金も受け取らずに施療院の場所を伝えた。男は不満そうに口を結んだ。
誓約は十二件のまま、増えなかった。
*
帰り道は運河沿いを歩いた。リディアは帳面を開いたまま、半歩うしろをついていった。
「一つに絞りたかったんです。作る品も、売り方も」
「知ってる」
「でも、イルザさんとヘルマンさんでは、同じ三番でも合う人と合わない人がいる。アンナさんは遠くを見るたびに外さなければいけない。それを言わずに渡したら、ひと月もしないうちに引き出しの奥行きです」
セシリアは足を止めなかった。
「会所で札が読めたのは、本当のこと。でも、それと朝から晩まで顔に掛けていられるかは別の話。今日わかったのは、それだけ」
「それだけ、とは思えません」
リディアは帳面の一枚を破り、運河の欄干の上で書き直した。名前、番号の下に新しい欄を足す。仕事、紙や布までの距離、一日の使用時間、姿勢、掛けて四半刻後の違和感。
セシリアがそれを横から覗きこんだ。
「最後の欄は、一日使ってから聞き直して。四半刻では出ない痛みがあるから」
「書き足します」
二人は欄干の前で、初めの品を決めた。手元仕事向けの五段階だけにする。遠くと近くを兼ねる品も、左右で度の違う誂えも作らない。左右差が大きい人、強い視力差のある人、目の痛みや霞みを訴える人、病気が疑われる人には売らない。施療院へ回す。
「売れる人が減ります」
言ってから、リディアは自分で首を振った。
「いいえ。減るんじゃなくて、売ってはいけない人に売らずに済むんですね」
「あなたが言うと、商売の言葉になるのね」
皮肉なのか感心なのか、リディアには判別できなかった。セシリアはもう歩き出していた。
「どの番号がその人に合うかは、わたしが決める。誰にどう話して、何人分を揃えるかは、あなたが決めて」
「はい」
それは許しではなかった。持ち場の線引きだった。それでも、リディアは帳面の端にその言葉を書き留めた。
*
工房へ戻ると、日が傾いていた。
セシリアは試した玉を一つずつ布で拭き、木箱へ戻しはじめた。父の箱には、段ごとに同じ刻みをつけた玉が何枚か入っている。イルザがいちど三番を掛け外ししたときに言っていたことを、リディアは思い出した。
「イルザさんが、右の玉のほうが少しはっきりする気がする、と」
セシリアの手が止まった。
彼女は刻みが三つの玉を二枚選び、窓辺の光の中へ持っていった。白い紙を床に置き、一枚目をかざして、紙の上に窓枠の像を結ばせる。像がいちばん鋭くなる高さで手を止め、壁に炭で印をつけた。二枚目でも同じことをする。
二つの印のあいだには、指一本分の隙間があった。
セシリアは引き出しから、別に保管していた三番をもう一枚出して試した。今度は、初めの一枚に近い高さに印がついた。同じ刻みの三枚が、揃ってはいなかった。
「同じ厚みで、同じ皿で磨いたはず」
誰に向けた言葉でもなかった。
リディアは自分の帳面を見た。今日一日かけて書いた欄は、どれも「三番」という番号を土台にしている。その番号のほうが揃っていなければ、欄を何行増やしても意味がない。
「刻みでは、分けられないということですか」
「刻みは、父が磨いたときの目印。仕上がった玉の見え方を測った印じゃない」
セシリアは壁の炭の跡を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから作業台の引き出しを開け、定規と細い木の棒を何本も取り出した。
「今日の誓約者の割り振りは、いったん止めて」
「わかりました。鑑札が下りるまでに、まだ十日あります」
リディアは帳面の三番の行に、細く線を引いた。
窓の外で、炉の火が赤く脈打っていた。




