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婚約者より私を優先する幼馴染へ。私はあなたの婚約者と、眼鏡の商売を始めます――透明なだけの硝子が商都を変えるまで  作者: 他力本願寺


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第05話 七枚から、一組の眼鏡

窓硝子の炉は、朝から休まず唸っていた。


 カールが吹き竿を回し、年長の職人が焼き戻しの棚へ板を運ぶ。その音を背に、セシリアは作業台で砂皿の目を確かめていた。戸口に影が差しても、手は止めなかった。


「マルタさんの条件を伝えに来ました」


 リディアは入り口で立ち止まった。招かれるまでは中へ入らない。この数日で、二人のあいだに自然とできた決まりだった。


「目の前で、人の目に掛けても危なくない眼鏡を一組。それを見てから保証を考える、とのことです」


「あなたは何と答えたの」


「職人に確認してから返事する、と」


 セシリアはようやく顔を上げた。リディアは書付を一枚差し出した。断る場合の案が書いてある。保証人をほかに探す。開業を一か月遅らせる。その場合は、製造の進み具合と前払金の清算を、改めて工房と相談する。


「開業の都合で、実演まで引き受けていただけるとは思っていません。決めるのは、セシリアさんです」


 セシリアは書付を読み、たたんで返した。


「引き受けるわ」


「理由を伺っても?」


「眼鏡を作れると言ったのは、わたし。それを確かめたいという人がいるなら、見せるのが筋でしょう」


 リディアは何か言いかけて、口を閉じた。代わりに小さく頭を下げた。


「日取りは、炉の都合で決めてください」


 条件をつけてきた人間はこれまでにもいた。だが、決めるのをこちらに任せてきた商人は初めてだった。


    *


 炉が空くのは、窓硝子の焼成が一巡したあとの半日だけだった。


 その枠で、セシリアは木灰から精製したカリを量り、坩堝を据えた。溶けた硝子を型に落とし、徐冷の棚へ移す。冷めるまでに丸二日かかる。急げば中で割れる。焦ってもいいことはない。父はそれを、口癖のように言っていた。


 できた素体は七枚。三日目の朝、セシリアはそれを光にかざし、二枚を脇へ寄せた。泡がある。目に掛ける物でなければ、文鎮には十分な泡だった。


 残りは五枚。


 父の木箱からは、真鍮の試作枠を一つ出した。昔、父が自分の顔に合わせて曲げた枠だ。鼻当てを少し広げ、つるの先にやすりを当てた。オズワルドの耳の高さは、会所で見て覚えている。


    *


 マルタ・グリューンは、約束の刻限ちょうどに来た。


 工房を見回し、窓硝子の炉が動いているのを確かめてから、作業台の前の椅子に座った。上着は脱がない。長居をするつもりはないのだろう。


「炉を止めないのね」


「止めたら返済が止まります」


 セシリアの答えに、マルタは眉ひとつ動かさなかった。


 研磨は回転盤ではなく、父と同じ手板でやった。鉄の皿に砂と水を落とし、素体を当てて円を描く。粗い砂から細かい砂へ。最後は鹿革と紅殻で。腕の重さが偏れば曲面が歪む。数を数えるより、指先に返ってくる抵抗を聞いた。


 一枚目は、磨き終える手前で縁に細い線が入った。セシリアはそれを、ためらわず脇の布へ置いた。


 二枚目は傷もなく仕上がった。三枚目も同じように磨き上げ、セシリアは白い紙に引いた格子の上へ二枚を並べてかざした。片方だけ、格子の右隅がわずかに波打つ。


「これも駄目です」


「見たところ、きれいだけれど」


 マルタが身を乗り出した。セシリアはレンズを渡し、格子を指した。


「隅を見てください。線が揺れます。硝子の中に、溶け方のむらがある。読み石なら気にならない程度です。でも眼鏡は一日じゅう顔に掛けるものです。ずっとこれを通して見ていたら、頭が痛くなる」


 マルタはしばらく黙ってレンズを傾けていた。それから布の上に戻した。


 四枚目は格子がまっすぐ通った。セシリアは窓から差す光を二枚のレンズに通し、紙の上で像を結ばせた。紙を前後させ、像がいちばん鋭くなる距離を比べる。父が残した三番の試作と並べても、ほとんど差はない。精密な測り方とは言えない。最後の一枚はまだ磨かずに残してある。まずはこの二枚が組にできるか、確かめなければならなかった。


 二枚の縁の角を砥石で落とし、指の腹で一周なぞる。それから試作枠にはめ、留めた箇所をもう一度確かめた。


 作業台の端には、泡の入った素体が二枚、縁の欠けたもの、むらのあるもの、それに予備の一枚が並んでいた。セシリアはそれを片づけなかった。


「合格は二枚です。素体を七枚作って」


 マルタの視線が、並んだ失敗作と完成品とを往復した。


    *


「では、お金の話を」


 マルタが向きを変えると、リディアが書類を広げた。この一刻、彼女は壁際から一歩も動かず、口も挟まなかった。セシリアが砂を替えるときでさえ、目で追うだけだった。


「この一組の工房の原価は、硝子と燃料で銀貨一枚ほどです。商店はこれを卸値六枚半で買います。枠と箱、それに無償交換の引当に四枚少々。売値は十二枚です」


「十二枚ね。熟練職人でも、十二日分の日当。それを全部買い物に回せるわけではないものね」


「仕事を続けられる年数で割れば、高くはありません。ただ、それを決めるのは買う人です。誓約は十二件。各三枚の申込保証金は公証人の預かりで、預り証がこちらにあります。わたしは手を触れていません」


 マルタは預り証の印と日付を、指でなぞるように確かめた。


「前払金の八十枚は」


「工房との製造仮契約です。三十組分の卸代金に充てて、残りの百十五枚は納品のたびに払います。わたしが途中で手を引いた場合は、まだ納めていない分の前払金を工房が優先して返します。納め終えた分は売買代金として精算します」


「返す原資はあるの」


 その問いは、セシリアに向けられていた。


「窓硝子の積立は、炉の借金の返済用です。八十枚は別の帳面につけて、レンズの灰や燃料に使っています。使った分と残った分は、ここに」


 セシリアは帳面を開いた。話が流れれば、まだ納めていない分を返さなければならない。だからこそ、何に使ったかを一行も省けなかった。


「いま取引が止まれば、使った分をすぐには返せないのね」


 マルタの問いに、セシリアは頷いた。返還の約束があっても、箱の銀貨が増えるわけではなかった。


「最初の納期は」


「ひと月に作れる数は、この方の見立ての半分です」


 セシリアが先に言った。リディアは訂正せず、書類のその行を指した。


「数字はそちらに合わせてあります。お客様への説明と清算は商店が受け持ちます。工房との清算は、こちらの契約に従います」


 マルタは長いあいだ、書類と作業台の失敗作を見比べていた。


「わたしは慈善家ではないわ」


「存じています」


「保証料はいただく。それから、最初の三十組を納め終えるまで、月に一度帳簿を見せなさい。ひとつでも嘘があれば、新しい取引の保証は打ち切ります。それまでに保証した分は、契約どおりに清算してもらいます」


 マルタは懐から筆を出し、保証状に名前を書いた。


「鑑札が出るかどうかは、ギルドの審査しだい。わたしが請け負うのは、あなたの借りに名前を貸すところまでよ」


 それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。


「店が育てば、両替も為替もうちで扱わせてもらうわ。それがわたしの儲け」


    *


 その日の夕方、オズワルドが工房へ来た。


 セシリアは貸与の書付を読み上げた。期限は十四日。痛みや目眩が出たら、すぐに外して返しに来ること。品は工房の試作品で、売り物ではない。署名は工房主のセシリアがした。リディアは立会人の欄に名前を書いただけだった。


 老人の鼻に枠を載せ、つるの角度を指で直す。


「帳簿を」


 オズワルドは持参した綴りを開いた。読み石を使うときのように、背を丸めて紙へ顔を寄せようとし、その途中で止まった。


 背中が、ゆっくりと伸びていった。


「……行が、全部ある」


 指が頁の上を滑っていく。左の欄から右の欄へ。日付、品名、数量、金額。石を動かして一字ずつ拾っていた頃には、行を読み飛ばすのが怖かったのだと、老人はぽつりと言った。


「自分で数字を検められる。人に読ませないで済む」


 綴りの最後の頁まで読み終えると、オズワルドは眼鏡を外し、両手で布に包んだ。


「十四日後に、必ず」


    *


 老人が帰ったあと、工房には炉の音だけが残った。


 リディアは書類をまとめ、戸口で振り返った。


「今日の格子の確認、あれは帳簿に何と書けばいいですか」


「検品の一つ。名前はまだないわ」


「では、名前がつくまで空けておきます」


 セシリアはうなずいただけだった。礼も、それ以上の言葉もなかった。それでも、リディアが出ていったあと、作業台の端の失敗作を片づける手は、いつもより少し遅かった。


 彼女は七枚の素体の記録をつけた。合格したのは二枚。


 三十組なら、レンズは六十枚。必要な番ごとに、左右を揃えて六十枚。


 今日の二枚は、父の試作と比べてやっと揃えた。紙の上で像を見比べ、指と目で決めた。同じことを六十回繰り返して、六十回とも同じ答えが出せるのか。


 セシリアは帳面を閉じ、炉の火の色を見に立った。一組作れたことは証明できた。だが、三十組を作れることは、まだ誰にも証明していなかった。

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