第04話 名前だけでは足りない
商人組合の窓口の係は、申請書を半分まで読んだところで顔を上げた。
「保証人の欄が空いていますね」
「これから探します」
「鑑札は、取引で損を出したときに払える人の名前と引き換えです。小売りなら、組合の名簿に載っている商人か両替商の保証が要ります」
係はリディアの顔をもう一度見て、少し声を落とした。
「ローヴェン商会の参謀をなさっていた方でしょう。若旦那様の一筆があれば、保証の審査は今日のうちに通りますよ」
「もう商会の者ではありません」
リディアは申請書を返してもらい、鞄にしまった。係は、もったいないことをする人を見るような顔をした。
ローヴェンの名前があれば、窓口の扉はいつも先に開いていた。今日はじめて、その扉が自分の前で閉まる音を聞いた気がした。
番頭住まいの部屋を引き払うのに、半日もかからなかった。
商会の机と椅子、寝台、窓の帳。もともと自分の物ではなかったものを残すと、荷物は行李二つに収まった。
父は戸口で、持ち上げかけた行李をリディアの手から取った。
「港の裏の、樽屋の二階だったな」
「階段が急なの。気をつけて」
坂を下りるあいだ、父は商会の話を一つもしなかった。明日の荷受けの段取りも、若旦那の様子も、口に出さない。娘が辞めた家に、父は明日も勤めに行く。その線を自分から引いているのだと、リディアには分かった。
樽屋の二階は、窓が一つの小部屋だった。床板の隙間から、木を削る音と酢の匂いが上がってくる。父は行李を置くと、天井の低さを確かめるように見上げた。
「縁談のことだが」
「それは、もう少しあとで話しましょう」
父はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。帰りがけに、胸元の読み石に触れた。
「これがなければ、わしは三年前に辞めていた。それだけは覚えておけ」
階段を下りる足音を聞きながら、リディアは帳面を開いた。家主に払った敷金と最初の月の家賃、荷車の手間賃。今日、手元から出ていった銀貨を一行ずつ書いた。
商会の帳簿なら、何千枚の数字でも書いてきた。自分の名前の下に、自分の生活費を書くのは初めてだった。
夕食は、角の店で買った黒パンと酢漬けの魚だった。ランプの油も、明日からは自分で買わなければならない。前払いを済ませたとき、手元に残った開業資金は七十枚。今日の転居費用で、それも減った。そのうちの何枚を今夜の灯りに使ってよいのか、リディアは帳面を前にしばらく決められなかった。
両替商グリューンの店は、港の税関と同じ通りにあった。
分厚い樫の扉の内側には、天秤と分銅が並んでいる。奥の帳場に、白髪をきつく結い上げた女主人が座っていた。マルタ・グリューンは、リディアが名乗るより先に口を開いた。
「ベル番頭のお嬢さんですね。ローヴェンを辞めたと聞きました」
「その件で、お力を借りに来たのではありません」
「では、何を借りに」
「商人鑑札の保証人になっていただきたいんです」
リディアは書類を広げた。眼鏡の値段、工房の製造条件、写字生たちの十二件の誓約。マルタは老眼鏡もかけずに、一枚ずつ指でめくった。
「誓約が十二件。保証金は」
「各三枚、公証人に預けてあります」
「では、あなたのお金ではありませんね」
「はい」
「誓約は、品物が気に入らなければ取り消せる。違いますか」
「違いません」
マルタは次の紙をめくった。
「自己資金は百五十枚。そのうち八十枚は、もう工房に払ってある。鑑札も取らないうちに、半分以上を」
「レンズの代金の前払いです。納められなかった分は返していただく契約になっています」
「その工房に、八十枚を返すお金はあるんですか」
リディアは答えに詰まった。窓硝子の積立は返済用で、八十枚はこれからの製造に要る。どちらも、そのまま返還用に残しておける金ではなかった。
「返還の順位は契約に書いてあります。けれど、返す原資がどこにあるかは書いていません」
「正直ですね」マルタは表情を変えなかった。「もう一つ。眼鏡を作った工房から、この街の誰かが眼鏡を買ったことはありますか」
「読み石なら、何年も」
「眼鏡は」
「……まだ、一組もありません」
マルタは書類を揃えてリディアの前に戻した。
「お断りします。あなたが賢いことは知っています。ローヴェンの若旦那が、あなたの数字で何をしてきたかも。ですが、私が保証するのはあなたの頭ではありません。客が払うお金と、職人の手と、失敗したときに誰が何枚払うかです」
その夜、樽屋の二階のランプは遅くまで消えなかった。
リディアは書類を最初から組み直した。十二件の誓約は、名前と職業、試した玉の段階、施療院へ回した人数まで添えた。取り消せる誓約であることも、隠さずに書いた。
資金の表には、前払いのあとに残った七十枚の行き先を一枚単位で並べた。転居に使った分と、これから要る分を分ける。道具や箱は一度に揃えず、入金に合わせて買い足す。鑑札が下りなかったとき、保証金は公証人からそのまま申込者に戻る。前払いの八十枚は、納められたレンズの代金へ順に充てる。取引をやめる場合、未納分は契約に従って優先返還してもらう。だが、その日に現金がなければ、分割の相談を受けることも、回収できないこともありうる。分割に応じるかは、そのとき双方で決める。最後の行に、返らない危険まで保証人に隠すつもりはない、と書き足した。
残ったのは、製造条件の欄だった。そこだけは、リディアには埋められない。
翌朝、工房を訪ねると、セシリアは炉の前で灰の具合を見ていた。リディアが差し出した紙を受け取り、炉の熱が届かない場所まで下がって読む。
「一日に何組、と書いてありますね」
「その数字を確かめていただきたくて」
セシリアは帳場から筆を取り、数字の上に線を一本引いた。
「窓硝子の火を落とす日はありません。レンズに使えるのは、炉が空く半日だけです。それに、仕上げたものを全部売れるわけではありません」
隣に書かれた数字は、リディアの見積もりのほぼ半分だった。
「この数字で、保証が取れますか」
「分かりません。でも、こちらが本当の数字です」
セシリアは紙を返さなかった。最後の頁まで目を通し、返らない危険も隠さないと書いた行で、指を止めた。
「ここは、あなたが書いたんですか」
「はい」
セシリアは何も言わず、自分の名前の欄に、製造条件を確認したという短い一文を書き添えた。
二度目に訪ねたとき、マルタは前回の倍の時間をかけて書類を読んだ。製造の数字が半分に減っていることにも、職人の署名が増えていることにも、気づいたようだった。
「最初の書類より、見栄えが悪くなりましたね」
「最初の書類が間違っていました」
マルタは天秤の皿に、分銅を一つ載せた。針が静かに傾く。
「数字はもう十分です。足りないのは一つだけ」
分銅を指で押さえたまま、彼女は言った。
「私の目の前で、眼鏡を一組仕上げてください。人の目に掛けても危なくないものを。それを見てから、保証を考えます」
リディアはすぐには頷かなかった。
「作るのは、私ではありません。職人に聞いてから、お返事します」
マルタは初めて、わずかに口元を動かした。
「それでいいんです。勝手に請け負うような人なら、もう帰ってもらっていました」




