第03話 最初の客と、拒否の署名
朝の炉に薪をくべながら、セシリアは昨夜読んだ紙束のことを考えていた。
数字に嘘はなかった。工房に残っている契約書の写しと照らし合わせても、一行の誤りも見つからない。そのことが、かえって腹立たしかった。あの人は、正しく書く人なのだ。去年の覚書も、きっと同じように正しく書いたのだろう。
棚の奥から、父の木箱を下ろした。
布張りの仕切りに、円い硝子が五組並んでいる。父の目が弱りはじめた頃から、二人で少しずつ削ってきたものだ。曲面のふくらみが一組ずつ違い、いちばん浅いものは、ほとんど窓硝子と見分けがつかない。いちばん強く湾曲した玉は、父の目に合わせるはずだった。縁がまだ曇っている。
研磨台に箱を置き、セシリアは一組ずつ光にかざした。泡はない。むらもない。父に渡せなかったことを除けば、仕事に欠けているところはなかった。
昼過ぎ、リディアが来た。挨拶もそこそこに、薄い板を何枚も差し出す。
「読み札です。上から下へ、字がだんだん小さくなっています。写字生の方が普段書く大きさと、契約書の細かな但し書きの大きさに合わせました」
板には、ありふれた祈りの句が五段に書き分けられていた。いちばん下の段は、目を近づけないと読めない。
「三日間、会所を借りられることになりました。オズワルドさんが組頭に話を通してくださって」
「私の玉を使うなら、説明は私がします」セシリアは箱の蓋を閉じた。「あなたは、目のことを知らないでしょう」
「知りません。お願いします」
あっさり頷かれて、セシリアは言葉の行き場をなくした。
写字生の会所は、インクと古い紙の匂いがした。
長机の端に、セシリアは五組の玉を並べた。オズワルドが一人目に腰を下ろす。いつもの読み石を胸元にしまい、読み札を手に取った。
「目から指二本ほど離して、こちらから順に覗いてください」
一番目では首を振った。二番目で、老人の眉が上がった。三番目を目の前に当てたとき、皺だらけの手が止まった。
「……一番下まで、読める」
声が少しかすれた。
「読み石なら、一行ずつ転がさにゃならん。これは、紙ごと見える」
オズワルドは読み札を置き、懐から折りたたんだ紙を出した。昨日まで校正を頼まれていた写本の控えだという。玉を目に当てたまま細かな行を追い、ある一字に指を止めた。消しかけの訂正の印を見つけたのだ。それから紙を膝に置き、しばらく何も言わなかった。
セシリアは、自分の手が震えていることに気づいた。
父の目に合わせて削った硝子が、知らない人の目に光を戻している。窓硝子は家を明るくするが、誰がその家に住むのかを、彼女は知らなかった。目の前の老人の安堵は、自分の手で触れられるところにあった。
話は昼のうちに会所じゅうに広まった。読み石を使っていた老職人が知り合いを連れてきて、その知り合いがまた別の誰かを呼んできた。
セシリアは一人ずつに同じことを言った。
「これは近くを見るための硝子です。目を治すものではありません。遠くを見るときは外してください。左右で見え方がひどく違う方、痛みや霞みのある方には、お売りできません」
二日目の午後、若い帳簿係が三番目の玉を覗いて「片目だけ曇る」と言った。セシリアは玉を取り上げた。
「施療院で診ていただいてください。眼鏡で片づけていい症状かどうか、私には判断できません」
男は不満げに帰っていった。リディアは引き止めず、名簿の欄に「施療院紹介」とだけ書いた。売上を一つ逃したことを、惜しむ様子は見せなかった。セシリアはそれを横目で見て、何も言わなかった。
購入を望む人には、リディアが条件を説明した。
「正式にお売りできるのは、私が商人鑑札を取ってからです。今日いただくのは、買う意思をお約束いただく誓約書と、申込保証金の三枚だけです。保証金は私ではなく公証人が預かります。品物をお渡しできなければ、全額お返しします」
三日目の夕方、名簿に並んだ名前は十二になった。三枚ずつ、計三十六枚の申込保証金は、すべて公証人が預かっている。まだ、正式な売上ではなかった。
十人ではなかった。多かった、と言うべきなのだろう。けれどセシリアは、名簿の端に書かれた「施療院紹介」の数も数えた。一組十二枚という値段に、口ごもって帰っていった人の顔も覚えていた。
「十二人です」リディアは名簿を閉じた。「十二人では、炉は守れません。ただ、守れるかどうかを試すことはできると思います」
喜ばせようとしない言い方だった。セシリアは、そのことに少しだけ救われた。
六日目の朝、アルベルトは自分で工房に来た。
差し出された書面は、彼の字で書かれていた。配合の記録はセシリア個人の所有とする。工房長として給金を支払う。小物の部門は残す。挙式は一年延ばす。眼鏡は、ローヴェン家の事業として扱う。
「目録の条件は、こちらの見通しが甘かった」彼は率直に言った。「リディアの――いや、君の読み石が売れることは分かった。正当な形で事業にしたい」
悪い条件ではなかった。金額や待遇だけを見れば、父も評価したかもしれない。
「眼鏡は、いくらで売るおつもりですか」
「水晶眼鏡の客層に合わせる。一組四十枚前後になるだろう」
「写字生には、売れませんね」
「売らないことになる」アルベルトは目を逸らさなかった。「数の少ない客に合わせて、炉を回すわけにはいかない」
嘘をつかない人だ、とセシリアは思った。だからこそ、その答えがすべてだった。
「挙式を延ばしても、結婚すれば工房の登録はローヴェン家に入ります。いつか私が親方になっても、印はあなたの家のものになる」
「それは旧い規則で、僕が決めたわけではない」
「ええ。でも、あなたはその規則の中で私に結婚を申し込んでいます」
セシリアは書面を揃えて返した。
「誰に売るか、いくらで売るか。私は、それを自分で決めたいんです。待遇の問題ではありません」
公証人の部屋は狭く、窓からの光が卓の上を白く切り取っていた。
セシリアは、目録が提示された日付と、今日の日付が並ぶ欄を見た。七日の期限まで、あと一日ある。けれど明日まで待っても、答えは変わらなかった。
「婚姻財産目録に基づく婚姻を、お受けしません」
自分の声は、思っていたより落ち着いていた。
拒否の欄に署名をする。父と同じ、右上がりのノルドの字だった。
立ち会いの椅子にいたアルベルトは、しばらく黙っていた。それから公証人に向き直り、受領の欄に自分の名を書いた。
「拒否を承りました」彼はセシリアを見た。「窓硝子の卸契約と炉の担保は、そのまま残ります。返済は元の契約に戻る。今日が起算日になるから、最初の期日はおよそ三か月後だ」
「承知しています」
「君は僕の提案より厳しい道を選んだ」
「はい」
アルベルトは小さく頷き、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。引き止める言葉も、恨み言もなかった。セシリアには、それが勝ち目の薄い賭けを黙って見送る商人の顔に見えた。
夕方、工房の帳場で、リディアは二枚綴りの書面を置いた。
「将来供給の仮契約です。レンズを三十組。卸値は一組六・五枚、合計百九十五枚。そのうち八十枚を、今日前払いします。残りの百十五枚は、納品の都度お支払いします」
セシリアは一行ずつ読んだ。納品できなかった場合は、未納分に当たる前払金を優先して返す。納品済みの分は売買代金として清算する。どちらかが取引をやめるときの手順も書いてあった。
「借金を肩代わりするお金ではありませんね」
「品物の代金です。返済はセシリアさんがするものです」
「そのつもりです」
セシリアは署名し、領収書を書いた。リディアが置いた銀貨を一枚ずつ数える。八十枚。重さは、思っていたほどではなかった。
最初の返済は百六十八枚。窓硝子で積み立てられるのは九十枚だけだ。足りない分は、自分のレンズで稼ぐしかない。
リディアが帰り支度をしながら言った。
「明日、鑑札の保証人を探しに行きます」
「見つかるんですか」
「分かりません」
扉が閉まった。セシリアは帳場の灯りの下で、父の木箱を開けた。縁の曇った一組を取り出して、研磨皿の上に置く。
九十日。
まだ、あの人を信じたわけではない。それでも今夜は、この玉を仕上げたかった。




