第02話 あの一行を書いたのは私です
翌朝の執務室には、書類が三通そろえてあった。
退職届の受理書、退職金の受領書、守秘の誓約書。どれもアルベルトの字で、日付まで入っている。昨夜机に残してきた書庫の鍵は、受理書の上に置き直されていた。
「規定どおり、勤続年数で計算した」アルベルトは椅子を勧めた。「多くも少なくもない。そのほうが君も受け取りやすいだろう」
引き止める言葉も、責める言葉もなかった。昨夜「疲れているんだろう」と言った人が、一晩で手続を整えている。この人の誠実さは、いつもこういう形をとる。
リディアは誓約書を一行ずつ読んだ。未公開の顧客名簿、入札条件、原価資料は使用も開示もしない。公開されている価格と、取引相手が自分で持っている契約書の内容は、その限りではない。自分が書いても同じ文面になっただろう。
「念のため言っておく」アルベルトはペンを差し出した。「辞めた参謀を欲しがる家はある。ブラント家などは、とくにな」
「ブラント家が、私を?」
「去年、君に縁談を申し込んできた。君のお父上と相談して断った」
ペン先が紙の上で止まった。
「狙いは君ではなく、君の頭に入っている入札の数字だった。調べた結果だ。間違ってはいなかったと思う」
「父も、それを」
「君を守ると決めたのは、二人の合意だ」
たぶん、その判断は正しかったのだろう。ブラント家の当主が何を欲しがるか、リディアにも想像はつく。調べてもらえば、自分も同じ結論を出したはずだった。
ただ、その結論を出す機会がリディアには一度も与えられなかった。
「間違っていたのは、調べた結果ではありません」リディアは署名を済ませ、ペンを置いた。「私に聞かなかったことです」
アルベルトは少しのあいだ黙り、それから、分かったとだけ言った。分かってはいないのだろう、とリディアは思った。
番頭住まいの奥の自室で、リディアは机の中身を二つの山に分けた。
左の山は商会の物だ。調達の覚書の写し、取引先の一覧、原価の試算帳。自分の筆跡で埋まった帳面も、中身が商会の数字なら左に置いた。右に残ったのは、着替えと母の形見の櫛、それに名前のない返事が一通だけだった。
試算帳の最後の頁には、ノルド工房の窓硝子の原価を書き込んである。ここを写しておけば、この先のどんな交渉でも役に立つ。
リディアは帳面を閉じて、左の山の一番上に重ねた。
夕方、書類を受け取りに来た父は、二つの山を見比べて目を伏せた。
「縁談のことは、わしが」
「あとで聞かせて。今日は、行くところがあるの」
工房の炉は、今日も唸っていた。
セシリアは帳場には通さず、作業場の端の研磨台の前に立ったまま、手も止めなかった。
「目録のご質問なら、昨日すべて伺いました」
「目録のことではありません」
リディアは鞄から、一枚の写しを出した。自分が持ち出せる唯一の商会の書類で、去年工房に送られた取引条件の変更通知だ。工房に届いたものだから、工房の手元にも同じものがある。
「仕入れ全体の値下げと、採算の低い小物の仕入停止を起案しました。窓硝子は既存の固定契約があって、値下げの対象から外れました。でも、読み石の仕入れを止めるこの通知のもとを書いたのは、私です」
研磨皿の回る音が止まった。
「故親方の残りの在庫で、後継の品の質は分からない。そう書きました。工房に来たことも、使っている人に聞いたこともないまま」
リディアは頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
セシリアは何も言わなかった。リディアは顔を上げなかった。続きを言わなければならないことは、分かっていた。
「三年前、商会の倉で読み石を一つ買いました。父の目が弱って、番頭を辞めると言い出した頃です。あの石で、父はもう一度帳簿が読めるようになりました。礼状を書いたのも、私です」
足音が遠ざかり、棚の引き出しが開く音がした。
戻ってきたセシリアの手には、角の擦り切れた一通の手紙があった。リディアは自分の字を見間違えなかった。
「父が亡くなった冬、これを何度も読みました」
セシリアは手紙を広げもせず、研磨台の上に置いた。
「倉で売れ残っている石を、誰かが自分の給金で買ってくれた。帳簿の数字が見えると言って、お父様が笑ったと。やめなくていい、と言われた気がしたんです」
灰色の目が、昨日の目録の余白に残っていたリディアの書き込みを思い出すように細くなった。
「そのあとに、同じ字の人が、作る必要はないと書いた」
セシリアは手紙を指先で押し出した。紙が台の上を滑り、リディアの手元で止まった。
「お返しします」
リディアは手紙に触れなかった。触れる資格があるのかどうかも、分からなかった。
「謝罪は伺いました。受け取るつもりはありません」セシリアは研磨皿に手を戻した。「お帰りください」
「許していただこうとは思っていません。手伝わせてほしいとも言いません」
リディアは綴じた紙の束を、手紙の隣に置いた。
「ただ、これだけ置いていかせてください」
セシリアは見ようとしなかった。リディアは、皿の音に負けない声で言った。
「道は三つあります。婚姻を受ければ、返済の猶予は続きます。そのかわり、工房の登録と親方の印はローヴェン家に入り、小物はなくなります。婚姻を拒めば、元の貸付契約に戻ります。最初の四半期の返済は百六十八枚ですが、窓硝子で残るのは九十枚です。最初の返済では七十八枚足りません」
皿の音が、わずかに乱れた。
「三つ目は、窓硝子の外で、その七十八枚を稼ぐ道です。読み石か、その先の品で、月に十二組前後を売れるかどうか。使った数字は、この工房にある契約書の写しと、市場に張り出されている値札だけです。商会の帳簿の数字は一つも入れていません」
「ずいぶん丁寧ですね」
「それから、私の手元には百五十枚あります。その一部を、将来のレンズの卸代金として前払いする用意があります」
セシリアの手が完全に止まった。
「借金の肩代わりではありません。差し上げるお金でもありません。何組を、いつ納めるのか。納められなかったときに、どう返し、どう清算するのか。それを書面にして署名するまで、一枚もお渡ししません。ですから今日は、受け取らないでください」
「受け取りません」
「はい」
リディアはもう一度頭を下げ、手紙と書類をそのままにして作業場を出た。
坂を半分ほど下りたところで、後ろから足音が追ってきた。
セシリアだった。前掛けもつけたままで、手には紙の束と、布にくるんだ何かを持っていた。
「一つだけ、確かめておきます」息も乱さずに言う。「あなたの数字は、あなたが書いたというだけで信用できません」
「当然です」
セシリアは布をほどいた。中にあったのは、磨きかけの円い硝子が二枚だった。片方の縁はまだ曇っている。
「父の目に合わせて削っていた眼鏡の玉です。間に合いませんでした」
夕陽が硝子を通り抜け、セシリアの指の上で小さな光の輪になった。
「父は、婚姻を断ってもいいと言い残しました。断ったあとのことは、何も言い残してくれませんでした」
セシリアは硝子を布に包み直した。
「三日です。自分のお金を払ってでも買いたいという人を、十人連れてきてください。知り合いの義理ではなく、自分の財布を開く人を」
「十人」
「数字を見たら、考えます」セシリアは背を向けかけて、足を止めた。「勘違いしないでください。許したわけではありません」
坂を上っていく背中を見送りながら、リディアは鞄の中の手帳を開いた。商会の顧客の名前は、一つも書いていない。
白い頁の上に、三日、と書いた。




