第01話 確保済み
婚姻財産目録は、三度書き直した。
リディア・ベルは揺れる馬車の中で書類鞄を膝に押さえ、条項の並びを頭の中でもう一度確かめた。土地、炉、配合記録。譲渡の条項の下には花嫁本人の署名欄がある。どこにも曖昧な一語は残していない。そういう書類を作ることが、彼女の仕事だった。
「緊張しているのか」
向かいの席から、アルベルト・ローヴェンが目を上げた。
「先方から質問が出たら、答えるのは私ですから」
「君が書いたなら心配はいらない」
当たり前のことのように言うと、彼はまた数字の列に目を落とした。十九年、隣でこの横顔を見てきた。この人は褒めるときでさえ、決算の報告をするような口調になる。
ノルド工房は、港から一本入った坂の途中にあった。煉瓦の煙突から薄い煙が上がっている。窓硝子の炉には今日も火が入っているのだ。
出迎えたセシリア・ノルドは、灰で汚れた前掛けを外して一礼した。二十一歳と聞いていたが、熱に焼けた指先は、その倍の年月を物語っているように見えた。
「後継ぎ様にわざわざお越しいただくとは思いませんでした」
「大事な書類です。人任せにはできません」
アルベルトは礼を崩さない。帳場の狭い卓に目録が広げられ、リディアが条項を一つずつ説明した。セシリアは一行も読み飛ばさなかった。指で文字をたどり、分からない言葉があるとそこで止まって尋ねる。商人の娘ではないが、愚かな読み手でもない。
最後の綴りに来たところで、その指が止まった。
――附属人事案。婚姻後、ノルド工房支配人、リディア・ベル。
リディアは息をのんだ。こんな頁は書いていない。
「父と相談して付け加えた」アルベルトはリディアの方を見て言った。「あの工房を任せられるのは君しかいない」
「支配人というのは」セシリアが静かに口を挟んだ。「この工房の値段を決める方のことですか」
「経営は彼女が、製造はあなたが。それぞれ得意なことをすればいい」
セシリアは頷きも反論もせず、次の行に目を移した。
――ノルド雑貨部門は婚姻後に廃止。
「小物のことは、去年もお願いしたはずです」
「ええ、伺いました。リディアに採算を検討させて、見送るべきだという結論になった。正しい判断だったと思っています」
自分の名前が、盾のように卓の上に置かれた。リディアの脳裏に、去年起案した調達見直しの覚書がよみがえった。低採算品の仕入停止。数十行の一覧の中に、確かにノルドの名があった。
扉が叩かれ、商会の使いが顔を出した。市庁舎との折衝が前倒しになったという。
アルベルトはためらわずに立ち上がった。
「申し訳ない、中座させていただきます。質問はリディアに。書いたのは彼女ですから」
悪気のない声だった。彼は本当にそう信じているのだ。
炉の唸りだけが残った。
「あなたが書いた書類で、あなたが私の工房の主になる」セシリアは目録を揃えながら言った。「よくできていますね」
「その頁は、私が書いたものではありません」
「では、ご存じなかった」灰色の目がまっすぐこちらを向いた。「それで、何か変わりますか」
リディアは答えられなかった。
そのとき、裏口で控えめな音がした。
入ってきたのは腰の曲がった老人で、布の包みを大事そうに抱えていた。インクの染みた指を見て、リディアは写字生だと察した。
「すまんな、お嬢さん。落として、縁を欠いてしもうた」
包みから出てきたのは、掌に収まるほどの半球の硝子だった。平らな面を紙に伏せると、下の文字がふくらんで見える。縁に小さく刻まれた印を見た瞬間、リディアの背筋が冷えた。
父の机にあるのと同じものだ。
「商会の店で新しいのを買おうとしたら、去年から扱っておらんと言われましてな」
セシリアは欠けた硝子を光にかざした。
「欠けたのは縁だけですが、傷が字にかかりますね」
棚の引き出しから新しい一つを出し、老人の手に握らせる。彼が銀貨を出そうとすると、首を横に振った。
「私には商人鑑札がないので、直接は売れないんです。差し上げるだけなら構いません」
「オズワルドじいさんが、ただで帰れるもんかね」老人は困ったように笑った。「先代の頃から世話になっとるが、あんたが磨くようになってからのほうが、字が澄んで見えるよ」
リディアは、自分の声が遠く聞こえた。
「これは……あなたが作っているんですか」
「父の目が弱ってからは、私が」
三年前、商会の倉で埃をかぶっていたこの石を、リディアは給金で買った。番頭を辞めかけていた父が、その夜、帳簿の数字を指でなぞって笑った。礼状を書くと、名前のない返事が届いた。作り手は亡くなった親方で、倉にあるのは残りの品なのだろう、と思い込んだ。
そして去年、覚書にこう書いた。故親方の残在庫。後継品の品質は不明。継続仕入れ不要。
確かめもしなかった。工房に足を運ぶことも、使っている客に尋ねることもしなかった。
「去年、商会が小物の仕入れを止めたのは――」
「知っています。理由は聞かされていませんでした」セシリアは引き出しを閉めた。「さっき、伺いましたけれど」
謝罪の言葉が喉まで上がってきた。けれど、セシリアの方が先に口を開いた。
「目録について、まだ質問があります。お答えいただけますか」
それからの半刻、リディアは一つずつ正確に答えた。そうする以外に、この場で自分にできることはなかった。
帰り際、セシリアは余白に書き込まれたリディアの文字に、少しだけ長く目を留めていた。
「七日のうちに、公証人のところへ参ります」
受けるとも断るとも、彼女は言わなかった。
その夜、リディアはローヴェン家の執務室に一枚の提案書を置いた。雑貨部門は残し、読み石は継続して仕入れる。そのうえで、文字を大きく見せる読み石から、水晶眼鏡のようなレンズを作れないか。窓硝子の炉が空く時間を使い、製法と需要を小規模に確かめる、という内容だった。
アルベルトは軽く扱わなかった。最後の行まで読み、数字を自分で検算してから顔を上げた。
「三つある。高級水晶眼鏡と客を食い合う。炉の時間を割けば窓硝子の納期が狂う。それに、読み石を欲しがる客は数えるほどしかいない」
どれも筋は通っていた。去年の自分なら、同じことを書いただろう。
「君の去年の結論と同じだよ」彼は少し表情を和らげた。「支配人の件を黙っていたのは悪かった。君にとって一番いい席だと思ったんだ。あの工房は、君の数字で立ち直る」
「セシリアさんには、聞きましたか」
「彼女は職人だ。経営の席を欲しがってはいない」
「欲しがっているかどうか、聞いたことは」
アルベルトは、質問の意味が分からないという顔をした。
「婚約は決まっている。工房は守られる。君も僕の隣にいる。もう決まったことだろう」
決まったこと。
リディアは、その言葉の中に自分も入っていることに気づいた。彼女の席も、肩書きも、いつのまにか用意されていた。それを信頼の証だと思って、一度も断らなかった。その席から出した判断が、会ったこともない職人の願いを、本人の前で退けるために使われてきたのだ。
知らなかった、では済まない。知ろうとしなかったのは自分だった。
「参謀の職を、辞めさせてください」
懐から書庫の鍵を出し、提案書の横に置いた。
アルベルトは眉ひとつ動かさなかった。
「疲れているんだろう。今夜は帰って休め。辞表なら明日でも受け取れる」
鍵は、彼の手に取られないまま机の上に残った。
ローヴェン家の番頭住まいに戻ると、父は椅子でうたた寝をしていた。開いたままの帳簿の上に、あの読み石が載っている。
リディアはそれを手に取り、引き出しから古い返事を出して、紙の上に伏せた。名前のない短い文面が、硝子の下でゆっくりふくらむ。
この石を磨いた人と、自分はまだ一度も、まともに言葉を交わしていない。




