第17話 署名欄の上の文字
三度目の溶解の朝、セシリアは灰汁の桶を二つとも覗いてから坩堝に火を入れた。
澱は底で動かなかった。一日余分に寝かせた水は、光にかざすと薄い茶色のまま澄んでいた。
上層から巻き取った素体は十六枚。泡を抱えていたものが三枚あり、格子で線の波打ったものが一枚あった。カールが篩にかけた砂で十二枚を研ぎ、焦点台で十枚が幅に入った。
四度目は九枚だった。徐冷の途中で一枚に細いひびが走った。棚は扉から離れた段で、冷まし方も記録どおりだったが、ひびは出た。セシリアは帳面に「原因不明・一」と書いた。分からないものを、分かったふりをして書くことはしなかった。
五度目は十枚。
この三回のあいだにも、ヨハンは窓硝子の仕込みを一日も遅らせなかった。ローヴェン商会へ納める板は、いつもの寸法、いつもの枚数で棚に並んだ。レンズに使えたのは、その合間の半日ずつだった。カールは日が落ちると研磨台に布を掛けた。セシリアがそうするよう頼んだからだ。
黒板に番手ごとの数字が並んだ。
組合が評議で決めた十八組の内訳は、一番が一組、二番が三組、三番が六組、四番が五組、五番が三組だった。左右を合わせて三十六枚になる。
前から手元にあった十一枚に、三回で取れた二十九枚を足すと四十枚。その内訳は、一番三枚、二番七枚、三番十三枚、四番十枚、五番七枚だった。
セシリアは番手ごとに、必要な枚数を引いていった。四番はちょうど十枚で、余りは出ない。残りの番手にはそれぞれ一枚ずつ余りが出た。片方だけのレンズが四枚。それは眼鏡にはならない。
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組み立てはカールとトビアスが並んで行った。
レンズの縁は、カールが面取りした角に指を当てても引っかからなかった。トビアスは溝を削り直した枠に一枚ずつ収め、鋲を締め切る手前で止めた。半回り戻すのは、前の失敗で決めたことだった。
組み上がった眼鏡を、セシリアは一組ずつ焦点台に載せた。左右の刻印と測った値が合っているか。枠に押されて像が歪んでいないか。蝶番は滑らかに動くか。
三番の六組目で、手が止まった。
右のレンズの縁、鋲の真下に、砂粒ほどの欠けがあった。窓枠の像は崩れていない。見る位置にもかかっていない。けれど欠けはそこから進むことがある。
「外してください」
トビアスは何も言わずに鋲を抜いた。替えに入れたのは、余っていた三番の一枚だった。測り直し、組み直し、もう一度焦点台に載せる。今度は通った。
欠けたレンズは「二度と渡さない」の箱に入った。最後に残った片側は、一番、二番、五番の三枚になった。
十八組がすべて焦点台を通ったのは、組合へ納める前の日の夕方だった。
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組合の会所では、フェルスターと会計役、それに評議員が二人待っていた。
リディアが納品書を広げ、番手ごとに数を読み上げていく。会計役が帳面と照らし合わせ、一組ずつ箱を開けた。評議員の一人が刻印を確かめ、もう一人は蝶番を開いたり閉じたりしてから、実際に掛けてみた。
三番を試した老写字生が、手本の頁を持ち上げて顔から離し、また近づけた。
「この距離だ。わしの距離だ」
四番を手にした会員は、そのまま使い始めず、別の試験枠でも確かめた。仕事の距離には三番のほうが合ったので、貸出用の帳面には三番と記した。四番の完成品は四番として検収し、合う人のために箱へ戻した。組合の備品として、誰がどの番手を借りるかを記す帳面だった。
二刻かけて、十八組が検収台を通った。フェルスターが検収書に署名し、会計役が組合の印を押す。
「残りの代金です」
会計役が数えた銀貨は百八枚。リディアは一枚ずつ数え直して領収書を書いた。残る十二組と、それに見合う前金の分は次の期の約束として残る。その一行も、リディアは検収書の写しに書き足させていた。
会所を出たところで、リディアが小さな布袋を差し出した。
「十八組分のレンズ代です。百十七枚のうち、前払いの残り二枚を充てて、百十五枚」
セシリアは袋を受け取り、重さを確かめるように一度だけ握った。
「返済日の前に、受け取れました」
「受け取りの日付は、契約の日付どおりです」
リディアの答えはそれだけだった。セシリアは頷いた。この人は、こちらの返済日を知っている。知っていて、早めることも遅らせることもしなかった。
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オズワルドの家に呼ばれたのは、その夕方のことだった。
用件は前の日に聞いていた。孫娘のレーネが、樽屋の息子と結婚する。公証人の書いた婚姻契約書の写しが、仮綴じのまま届いているという。
狭い居間で、レーネと婚約者のパウルが並んで座っていた。レーネは二十にならないくらいの娘で、指先にレース糸の擦れた跡があった。
オズワルドは懐から箱を出した。先日、彼が自分の銀貨で買った三番の眼鏡だった。つるを開き、耳の後ろに掛ける。
彼は誰にも読ませなかった。
指で行を押さえ、一行ずつ追っていく。持参金の額。住む家。夫の家の帳簿について。ときどき指が止まった。止まるたびに唇が動いたが、声にはならなかった。
セシリアは自分の膝の上で手を組んだ。
工房の卓の上で、厚い財産目録をめくったことがある。譲渡の条項と、自分の名前を書く欄。読んだから、そこには署名しなかった。公証人の前で書いたのは、拒否を告げる別の欄だった。
オズワルドの指が、ある行で長く止まった。
「レーネ」
「はい」
「妻の手間賃は、夫の家の帳へ入れる、とある」
レーネはパウルを見た。パウルは首をかしげた。
「公証人さんが、ふつうはそう書くと」
「ふつうは、そうだ」
オズワルドは眼鏡の奥から孫娘を見た。
「お前は、それでいいのか」
レーネはしばらく黙っていた。それから、膝の上で指先の糸跡をこすった。
「レースの稼ぎは、自分の箱に入れたい。糸を買うのに、いちいちお義父さんに頼みたくないの」
パウルは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「それなら、そう書き直してもらおう。俺は構わない」
オズワルドは頷いた。それ以上は何も言わなかった。条項の横に炭で小さな印をつけ、写しをレーネの前に滑らせる。
「次に公証人のところへ行くとき、二人で言いなさい。わしは、書き直したものをもう一度読む」
レーネが紙を両手で受け取った。署名欄はまだ白いままだった。
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帰りがけに、オズワルドは戸口までセシリアを送りに出てきた。
「読み石で細字を拾うと、何度も行を見失ってな。長い紙ほど、人に読んでもらって頷いていた」
眼鏡を外し、箱にしまう。
「今日は、自分で読んで、自分で訊けた。ありがとう、ノルドさん」
セシリアは、父の最後の冬を思い出していた。寝台の横の小卓に、研ぎかけのレンズが二枚置いてあった。父の目に合わせるには、まだ磨き足りなかった。父はそれを手に取り、光にかざして、悪くないと言った。完成した眼鏡を、父は一度も掛けなかった。
その冬は戻らない。今日の十八組が、それを埋めるわけでもない。
「どういたしまして」
セシリアは礼を受け取った。
「書き直した契約書を読むときに見えにくかったら、店に来てください。見ます」
オズワルドは笑って戸を閉めた。
*
石畳を歩くうちに、リディアが口を開いた。
「今期の納品は、これで三十組です。個人が十二、組合が十八」
「はい」
「返済日まで、あと五日です」
セシリアは懐の布袋に手を当てた。百十五枚。そこからレンズ用の灰と燃料、研磨砂の支払いが出ていく。窓硝子の帳面では、カールとヨハンの給金も払わなければならない。窓硝子の返済箱には九十枚が積んである。足りない七十八枚は、この袋から出す。
「工房の帳面は、今夜わたしが締めます」
「お願いします」
リディアはそれ以上踏み込まなかった。セシリアはそのことを、ありがたいと思う自分に気づいた。気づいたうえで、口には出さなかった。
工房の窓に灯りが見えた。ヨハンがまだ窯の番をしている。
明日もまた炉に火を入れる。それは誰かに決められたことではなかった。




